第39回庭野平和賞贈呈式 南アフリカの聖公会司祭 マイケル・ラプスレー師 「記憶の癒し研究所」を設立 人々の声に耳を傾け和解もたらす
「第39回庭野平和賞贈呈式」(主催・公益財団法人庭野平和財団)が6月14日、日本と南アフリカをインターネットで結んでオンラインで開催された。今回の受賞者は、南アフリカの聖公会司祭であるマイケル・ラプスレー師(73)。「記憶の癒(いや)し研究所」を設立し、アパルトヘイト(人種隔離)政策下にあった同国をはじめ、世界各国で差別や暴力によって傷ついた人々の体験や悲しみに耳を傾けて、人々に癒しと和解をもたらしてきた。贈呈式では、招待を受けた宗教者や識者ら約180人が視聴する中、ラプスレー師が記念講演を行った。
ラプスレー師は1949年、ニュージーランドで生まれた。71年に聖使修士会(SSM)に入会。73年にオーストラリア聖公会で司祭となり、アパルトヘイト下の南アフリカで大学のチャプレンに就いた。政治的抑圧や経済的搾取といった構造的・制度的暴力に苦しむ黒人学生への差別の実態と、彼らの解放闘争を目にし、反アパルトヘイト運動に参加。76年に国外追放となってからも、司祭として各国を巡りながら、人種差別に反対する人々の意識を啓発し、運動の支援を集めた。
ジンバブエに滞在していた90年、ラプスレー師宛ての手紙に仕掛けられた爆弾によって両手と右目を失い、重度の火傷(やけど)を負った。この体験を基に「自由の闘士」「社会活動家」から「治癒者」になることを決意した。
91年、アパルトヘイト関連法が廃止された。翌年、ラプスレー師は南アフリカに戻り、ケープタウン教区司祭に就任(現在に至る)。93年に「暴力と拷問の被害者のためのトラウマ治療センター」(後に「暴力と拷問からの生存者のためのトラウマ治療センター」に改称)のチャプレンとなり、アパルトヘイト下での暴力や肉親の死などで傷ついた人々に癒しと和解をもたらす「記憶の癒し」ワークショップを構想し、各地で取り組んだ。
98年、この取り組みをさらに進めるため、臨床医療ではなく、霊性を中心にした「記憶の癒し研究所」を設立。その活動は、抑圧を受けた人々の記憶だけでなく、加害者側にも記憶と向き合うことを促して癒しを与え、相互の記憶を共有することで和解や希望をもたらしてきた。活動は国内にとどまらず、ルワンダや北アイルランドなどで行われた。
このほか、「キューバの友人協会」や米国同時多発テロ事件の犠牲者の家族らと「国際平和ネットワーク」を設立。現在、聖公会司祭で、「記憶の癒しグローバルネットワーク」会長を務める。
14日の贈呈式では、庭野浩士理事長のあいさつに続き、庭野平和賞委員会のランジャナ・ムコパディヤーヤ委員長(デリー大学東アジア学部准教授)が贈呈理由を報告した。この後、ラプスレー師に賞状と顕彰メダル、賞金2000万円の目録が贈呈された。
あいさつに立った庭野日鑛名誉会長は、人は不当な仕打ちを受けたり、辱めを受けたりすると、相手に怒りが湧き、やがて、絶えることのない不信と争いの連鎖に陥っていくと説明。その上で、ラプスレー師が自身の傷を乗り越え、さらには慈悲の精神で多くの人の怒りや怨(うら)みの連鎖を断ち切ってきたことに触れ、その功績に敬意を表した。
次いで、ラプスレー師が記念講演を行った。冒頭、原爆詩人の栗原貞子氏による詩作品『生ましめんかな』を紹介。原爆によって焦土と化した広島で、自身の命を顧みずに出産に携わった助産師のように、「記憶の癒し研究所」のワークショップを進めるファシリテーターにも、「平和の出産」を助ける助産師の役割を望んでいると語った。
また、1948年に国連で世界人権宣言が採択されたものの、今なお基本的人権が平等に扱われていない状況を指摘。差別や暴力、戦争に苦しむ人々の現状を説明し、「私たちは皆、平和を生み出すために呼ばれた助産師です。歴史が負った傷を癒し、変革的正義に向けての活動を通して平和を生み出すのです」と述べた。