第二バチカン公会議を導き、諸宗教対話を開いたローマ教皇パウロ六世が聖人に (海外通信・バチカン支局)
第二バチカン公会議を導き、完了させ、その精神をカトリック教会と世界へ浸透させていったパウロ六世は、「カトリック教会内部において、また、他のキリスト教諸教会の兄弟たち、諸宗教指導者と無神論者たちとの対話の促進者であり、福音を伝える情熱によって全ての人々にキリストの光と愛を伝えた」(ベッチュー枢機卿)。公会議が閉会へと向かいつつあった1965年9月、パウロ六世と庭野開祖との出会いも、その対話路線の一環だった。公会議と、パウロ六世による現代世界との対話路線は、1970年の第1回WCRP(世界宗教者平和会議)世界大会の開催を大きく後押しする。カトリック教会内部でも保守派の厳しい批判を浴びていた諸宗教対話を、後戻りできないプロセスとして世界に定着させたパウロ六世とWCRP/RfPの貢献は大きい。
公会議、世界平和と対話、そして、「人間生命の誕生の瞬間(受精)からの生命の擁護」が、パウロ六世のカトリック教会統治の基本政策だった。教会内部からの批判にも耐えながら、回勅「フマネ・ヴィテ」(人間生命)を公布し、人工妊娠中絶を「幼児殺害」と非難して譲らなかった。福者、聖人となるためには、二つの“奇跡”が認定されなければならないが、パウロ六世の場合、その二つは「流産の道しかない」と医師に判断されていた「胎児」の奇跡的な治癒と、無事に誕生したことにまつわるものだった。
パウロ六世と共に列聖された一人に、エルサルバドル・サンサルバドル教区のオスカル・ロメロ大司教(1917―80)が名を連ねる。貧しい人を愛し、人権の擁護に尽くすロメロ大司教は、1979年に勃発した内戦中に、貧困、拉致、殺人、拷問などの社会の不正を告発した。80年にミサ司式中の祭壇上で「死の部隊」とみられる狙撃犯によって暗殺され、殉教した。
(宮平宏・本紙バチカン支局長)