仏教の理想を表す蓮の花 見頃を迎え大聖堂庭園で観蓮会
蓮の花のように美しく生きることが妙法蓮華経を信じ、行じる者の役割
人間は、生きている限り、困難から逃れることはできません。東日本大震災の直後、私は、次のようにお話ししました。
「蓮華は、泥の水が濃ければ、濃いほど、大輪の花を咲かせます。今回の震災を、ただ単に悲劇として終わらせるのではなく、皆が、人間としてさらに大きく成長する機縁とすることが大切ではないかと思います」
このことは、どのような困難に直面しても、常に心したいことです。蓮の花には、三つの大きな特長があるといわれます。
一つは、「華果同時(けかどうじ)」ということです。普通の植物は、花が咲き終わってから実がなりますが、蓮は、花が咲くのと、実がなるのが同時です。それは、「因果不二(いんがふに)」ということでもあり、原因と結果が一つになって区別がないことの象徴とされています。つまり、蓮が泥を栄養とするように、つらく、悲しい思いをしたからこそ、悟りに到(いた)ることができることを意味しています。
二つ目は、「汚泥不染(おでいふせん)」です。蓮は、泥水の中から立ち上がります。にもかかわらず、まったく汚れのない綺麗(きれい)な花を咲かせます。従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)に、「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」とありますが、世の中の自己中心的な価値観に染まらず、教えに順(したが)って生きる大切さが示されています。
さらに「蓮にあだ花なし」といわれます。蓮は、咲きそこなったりせず、すべてがほぼ完璧に花を咲かせます。それは、「一切衆生悉有仏性」――一切の生きとし生けるものの尊さ、その可能性を表しているといえます。
大聖堂の周囲にも、夏になると、たくさんの蓮の花が咲きます。大輪も見事ですが、小さな花も可憐(かれん)で心を打たれます。自分なりの花を精いっぱい咲かせることが大事でしょう。そうした蓮の花のような人間に、一人ひとりがなっていくと同時に、家庭や職場、地域、大きくは国や世界を、蓮の花のように美しくすることが、妙法蓮華経を信じ、行じる者の役割です。
(佼成新聞2013年1月6日付1面「年頭法話」から)