『ミャンマーの平和と発展への諸宗教による展望』をテーマにしたセッションでの庭野日鑛会長のスピーチ(全文)

私どもは、法華経を所依の経典としておりますが、仏教徒にとって大事なことは、一人ひとりが菩薩の自覚を持って生きることであると教えられています。菩薩とは、仏の教えをよく信じ、理解し、その境地に向かって精進する決心をした人々のことです。いわば、仏の心を我が心として励む人々です。

仏の心とは、慈悲を本体としたものですから、菩薩における生き方の原動力も、慈悲であると言うことができます。そして、菩薩の場合における慈悲とは、自分が存在することによって、周囲の人々の幸福が増すように、苦悩が減るように、と念願をして生きることであり、これが菩薩の生き方にほかなりません。

また法華経には、菩薩にも「迹化(しゃっけ)の菩薩」と「本化地涌(ほんげじゆ)の菩薩」の二種類があると説かれています。端的に申せば、「迹化」とは、頼る信仰であり、「本化」とは、自覚と主体性を持った信仰と言えましょう。

「地涌の菩薩」とは、大地から涌(わ)き出てくる菩薩のことです。高い地位や権力を持っている人々ではなく、苦悩の多い現実の生活を体験する中で、仏の法を求め、黙々と精進する名もない人々のことです。釈尊は、この「地涌の菩薩」に娑婆(しゃば)世界の救いを任されました。このことは、何を意味しているのでしょうか。

人間の現実の問題は、結局、人間自身が解決すべきものであり、誰かが救ってくれると思い、それを待っていたのでは、解決されないということであります。自分自身が仏の心を持ち、自分の責任として、社会や国、世界が良くなるように努力する人が、大地から涌き出すように次々と現れ、連帯していかない限り、世の中の本当の調和、平和は、実現しないということです。

こうした教えは、仏教徒に限らず、社会生活を営む全ての人が、心すべきことではないでしょうか。とりわけ、次代を担う青少年に対して、慈悲と寛容の精神をもとにした平和教育を施していくことは、共生の社会を築いていく上で、最も重要な要素の一つです。このことについて、つい先日、先駆的で、大変素晴らしい試みを知ることができました。