第35回庭野平和賞受賞記念講演 アディアン財団のファディ・ダウ理事長
宗教には、さまざまな背景を持つそれぞれの信仰者を「必要とする人々に仕えるように」「人々の権利や尊厳を守るように」、そして「平和と和解のパートナーとして働くように」と促す社会的責任があります。信仰者は、自分たちや自身のコミュニティーのためだけに平和と善を求めることはできません。宗教は普遍的な使命を掲げており、宗教が約束するものは非排他的であることが示されなくてはならないのです。
グローバルな課題、さらには地域の課題も私たち共通のものであるなら、どうして別々に活動したり、時には競うように活動したりすることにこだわらなくてはならないのでしょうか。人間性や人間の脆弱(ぜいじゃく)性に関わることは、諸宗教が競合する分野ではありませんし、そうであるべきではありません。全ての人々、とりわけ信仰者にとって、人間が脆弱であるということは、慈悲による努力を人類への奉仕や愛に結びつける機会がもたらされ、人間の脆弱性とは、いつもそうしたものであるべきです。慈悲は、仏教やその他のアジアの宗教において、本質的な価値であることを私は知っています。同様に、イスラームの伝統においてもそうで、預言者ムハンマドの言行録には、「神により近き者は、その宗教にかかわらず、最も人類に尽くす者である」といった趣旨のことがはっきり語られています。イエス・キリストの教えの中でも、神を愛し神に仕える方法が、弱い人に対する奉仕であることは明らかです。
シリアの人々の過酷な状況に対して、アディアン財団は、専門家とキリスト教、イスラームの宗教指導者を集め、居住地を追われた人々、特に若い世代に対して、彼らを過激の道に走らないように平和と回復のための教育を提供しました。私たちは、シリアの子供たちが終わりのない戦争の“燃料”ではなく、将来の平和の構築者になるように取り組んできました。特に紛争時には、いかなる形であれ自己中心的に、あるいは支配や分離の正当化のために宗教の教えを使うのでなく、むしろ宗教は、異なるコミュニティーの信仰者たちが宗教宗派の垣根を超え、共感を持って生きる手助けとなるよう努める社会的責任があるのです。
簡潔に言えば、このことは私たちに、宗教が人間のためになるよう生まれたものであり、その逆(人間が宗教のためにあること)ではないということを思い出させてくれます。それゆえ、人類への働きが、あらゆる宗教のメッセージを表したものなのです。
差別に抗してこそ
第三の課題として、人類は、全ての人間の本質的な尊厳に反する「差別」という病にかかっていることが挙げられます。平和がそうであるように、人間の尊厳も分断するといったことはできません。従って今日、最も勇敢なヒーローは、時として自分と所属を同じくする人々と対峙(たいじ)してまでも、差別と闘い、全ての人の尊厳を守る人たちです。
ここで、人間の尊厳を守るための諸宗教協力の力強い実例としてお話ししたいことがあります。上エジプトに、キリスト教の一派のコプト教徒である「サメー」という男性と「ハンナ」というイスラーム教徒の女性がいます。二人は、コミュニティー間に社会的、宗教的な差別が頻発し、紛争の原因となるような地方の貧しい地域に住んでいます。
こうした紛争下にあって、相手方を非人間的に扱ったり、悪魔のように見なしたりすることよって怒りや暴力が正当化される状況があります。サメーとハンナは、こうした敵対する構造に陥ることを拒否し、被害者と不正を生み出す状況に共に立ち向かうことにしました。二人は現状に立ち向かう勇気を持ち、キリスト教徒とムスリム両方のコミュニティーの若者を対象に、共通する平和教育活動プログラムを作りました。アディアン財団では二人のことを知り、2カ月前にその取り組みを紹介する短い動画を作成しましたが、二人はそれまでは全くの無名でした。これまでに、エジプトでは200万を超える人々がその動画を目にしました。二人は差別と闘うモデルとして、母国のエジプトで共生の賞を受賞しました。
今、世界や人類を救うために、こうしたタイプのヒーローが求められています。信仰と愛、そして意志の力によって紛争を止め、差別を克服する、武器を持つことのない人々です。