第35回庭野平和賞受賞記念講演 アディアン財団のファディ・ダウ理事長 

多様性のない所に平和は存在せず

兄弟姉妹の皆さま

第一の課題は、多様性のない所に平和は存在しないということです。その代わりに、支配や差別、排斥、弾圧が起こります。多様性を認めずに、平和を築こうとする人は、結局、不公平で支配的な状況をつくり上げ、苦しみと暴力を生み出してしまいます。今日の世界最大の脅威の一つは過激主義です。実際、過激主義者は、自らの偏ったイメージだけで世界を見て、自分のイデオロギーの外にある真実や美、現実を見ようとしません。世界は今、宗教と民族、文化、生態学、国家主義、そしてイデオロギーに名を借りた過激主義という病に侵されています。多様性が否定されると、人は自分も含めて誰の生き方も許せなくなってしまうのです。

イラクやシリア、レバノン、そして世界の他の地域で「イスラーム国」(IS)は残虐行為を繰り返しました。世界はいまだ、そのショックから立ち直っていません。神の名の下に人々を殺りくし、教会や寺院、モスク、そして考古学的な遺産や文化的な遺産を破壊した光景を、人類は目の当たりにし、その深い傷を負ったままです。文化的な相違や経済的な特権の保護を理由にして、「難民に対して目の前で門を閉ざす」「民族的・宗教的少数派を排除、差別する」「弱い立場の人々を虐待する」といったことは、人間の魂を裏切る行為であります。

人間に対し、自然環境に対し、共同責任を持つという意味で、私たちはこれまで以上に「グローバル市民」になることが求められています。もし人に対し、環境に対し排他的な姿勢であるなら、私たちは「グローバル」にはなれません。こうした観点から、アディアンは、世界を過激主義や宗派主義、ポピュリズムから守るため、「非排他的市民権」という概念を開発しました。これは、多様性によって一致を築こうとする文化的、教育的、政治的な取り組みでもあります。

カトリック教会のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、レバノンが経験してきた共存の中に世界に通用するモデルを見いだし、「レバノンは国というものを超えた、西洋と東洋に対する、自由のメッセージであり、多元主義の実例である」と話されました。レバノンが文化と宗教間の対話に関する世界センターになることを望む人々もいます。中東では現在も戦争や紛争が続いていますが、アラブの国々の多文化で多宗教な環境で育った若い世代が多様性を積極的に受け入れ、共存と非排他的市民権の担い手として活動していることを、私は喜びを持って皆さまにお伝えします。

私たちが、多様性による共存を図るためにインターネット上に作った「タードゥディア」と呼ばれるプラットホームには、初めの年に2300万人以上の若者が訪れ、利用しました。レバノンと他のアラブの12カ国にいる数百人のトレーナーが、自らが暮らす地域社会の何万もの人々に対して市民権と共存の価値を広めています。今、当地は不公平と暴力の雲に隠れてはいますが、こうした若者の存在が私たちに「平和の太陽はここにあるのだ」という確信をもたらしてくれるのです。

平和は、無関心と共存することはない

第二の課題は、平和は、正義と全ての人に共通する善による奮闘であるので、「無関心」と共存することはできないということです。私たちは幸いにも、医学や科学技術が飛躍的に進歩した時代に生きています。社会的コミュニケーション分野の技術革新によって、お互いがどれだけつながり合っているかに大いに驚かされます。しかし同時に、戦争や紛争、飢餓、搾取、その他のさまざまな問題によって、世界がいまだに苦しみ続けている事実も知っています。

人々は人工衛星やインターネットによって国境を越えてつながることができ、グローバルな情報にもさらされていますが、まるでシャボン玉の中にあるように自分自身を狭い範囲の世界に隔離してしまっているようです。それゆえ、人間同士の相互関連性と互いの責任に対する自覚が大いに欠如してしまっていると言えます。残念なことに、ある人々は、自らを平和な心境で隔離し、精神的な利己主義と責任のない無関心を助長する囲いのための“シャボン玉”として宗教を用いているのです。

アディアン財団は創設以来、諸宗教対話が型通りの説明的な議論から、「宗教の社会的責任」に基づいた実効性のある共通のコミットメントに移行するよう働き掛けてきました。ステレオタイプを脱し、偏見を克服する手助けや、地域間の関係を築く橋渡しとなり、相互理解を対話によってもたらすことが重要です。しかし、宗教が信頼を持ち続けるためにも、対話が、人間性の公正な理想を掲げるコミットメントの場となることは、今日、一層重要になっています。