生き残った私たちの使命 元南三陸消防署副署長、震災語り部 佐藤誠悦氏

東日本大震災は私たちに大きな悲しみと恐怖をもたらしました。津波は愛する家族、同僚、思い出の詰まった家々を、木の葉のごとくさらっていったのです。あの日、宮城県の気仙沼湾にある石油タンク22基が破壊され、重油やガソリンなどの液体がすべて漏れ出しました。瓦礫(がれき)とどす黒い油分が濁流と化して陸地に押し寄せました。夕刻、何らかの原因でそこに着火し、炎上。「津波火災」が発生しました。気仙沼消防署の指揮隊長を務めていた私は、非番でしたが、これまで体験したことのない大災害だと直感し、災害対策本部で情報を収集した後、現場へ急行したのです。

業火は気仙沼の街をのみこもうとしていました。ところが、現場は断水。消火活動ができません。私は現場からおよそ1.5キロメートル離れた場所にある湧水を蓄えた防火水槽に目をつけました。氷点下2.5度の中、隊員たちが一本一本20メートルのホースをつなぎます。その数60本以上。夜を徹した消火活動の結果、明け方には鎮火することができました。

妻が行方不明だと分かったのは、消火活動から引き揚げた直後でした。帰れる者は帰っていいと災害対策本部から指令が下り、私は部隊に解散を命じました。消防士たちもまた、家を失い、家族の安否も分からない被災者なのです。しかし、人手が足りないため、全員を帰すことはできません。私は残るつもりでいましたが、同僚が「指揮隊長も帰れ」と促すのです。「ん?」という思いが頭をよぎりました。同僚の手にはA4判の行方不明者名簿が握られていました。その上から二番目に、「佐藤厚子」と記されていました。妻の名前でした。

しばらくして、津波で流された妻の車が発見されました。そこに妻の姿はありませんでした。私は避難所でもらったおにぎりを二つ供え、誰もいない車に向かって告げました。「すまない、災害現場に行く」と。<消防士の使命感に立ち戻り、住民の命を守ることに徹する>。そう心に決めたからです。自らを奮い立たせる手段は、他に見つかりませんでした。

語り部として被災体験を語る佐藤元南三陸消防署副署長

妻との再会は震災から6日後のこと。知らせを聞いて、すぐに妻のいる高校に向かいました。体育館の入り口で、私の足は硬直するかのように動かなくなりました。妻に会う自信がなかったのです。中には遺体が数十体、整然と並んでいます。裸のまま、ビニール袋に包まれていました。棺(ひつぎ)が足りないのです。その中に、私は横たわる妻を見つけました。冷たい体をグッと抱きしめました。その感覚は、私の体に残り続けています。レンジャー部隊やレスキュー隊など、さまざまな訓練を受けてきた私は、知識や経験を総動員して、いろいろな現場に突入して活動してきました。そんな私が、東日本大震災で自分の妻を助けることができなかった――この自責の念を抱き、残された人生を生きようと誓ったのです。

三回忌を迎えるころになって、ようやく妻の遺体を発見してくれた人と話すことができました。「右手の向き、頭はこちらを向いて、足はあちらの方角で……」。本当は、妻の最後の姿を事細かく知りたくはありませんでした。しかし、真実を受けとめなければ前へは進めない。私は未来に向かっていくために、遺体のあった場所を訪れました。それからというもの、毎日手を合わせに行っています。その場所には今、防潮堤が出来ました。それでも、私はすぐ近くまで行って、祈り続けています。私にとってこの場所は「いのちの会話の場所」だからです。雨の日も、雪の日も、私はなぜ祈り続けるのか。それは、「おまえを忘れないぞ!」と、叫びたくなるような強い気持ちにほかなりません。

昨年、卒業記念の特別講演として、3月11日に東京・青梅市の中学校で震災について語ってほしいという依頼を受けました。しかし、この日は地元で大規模な追悼式が行われる日です。私は断ろうとしていたのですが、長男が私に言いました。「父さん、それは父さんにしかできないことだから。家のことは俺がやるから心配しないで」と。この震災の真実を伝え、語り継いでいくこと、それが、残された者たちに課せられた使命です。家族を失った悲しみを胸に抱き、その心の痛みを感じながら、命ある限り伝えたい。それが、亡くなった数多くの命を生かすことになると思っています。

(2月19日、東京・台東区の浅草寺でWCRP日本委員会青年部会が『ともに生きる』をテーマに催した「公開学習会」の基調講演から)

プロフィル

さとう・せいえつ 元南三陸消防署副署長、震災語り部。2011年3月11日の東日本大震災の際に、気仙沼消防署指揮隊長として気仙沼津波火災の消火活動や人命救助に従事。13年3月に定年退職して以降、講演活動を通して、同震災を後世に伝える活動を全国各地で行っている。