あんな悲しい思いを二度と誰にもさせたくない 被爆体験証言者・吉田章枝氏

翌朝早く、八丁堀の家へ帰るという友達二人と一緒に出掛けました。近くの橋を渡り、白島(はくしま)へ入ると、そこからは一面の焼け野原です。友人と別れ、私は一人で、姉を捜しに中国軍管区司令部があった広島城の方へと向かいました。

道路には、何もかも、黒焦げになって、見分けのつかないものがゴロゴロと転がっていました。倒れた電柱の先から、火がチョロチョロと燃えています。音もなく、しんと静まりかえった街、何一つ動きのない街を、私は、ただ一人で歩きました。なるべく周囲を見ないようにと、ただ足元ばかりを見つめながら、歩いていきました。しばらく歩く中、ついに、恐ろしさのあまり、私の足は前に進まなくなりました。

遠くから人影が見えてきました。その人は、今朝、島から船で港に着き、歩いて来られ、これから牛田へ行くと言われるので、私は、そのおじさんにお願いしました。「どうぞ、わたしを饒津のところまで、連れて帰ってください。一人ではとても怖くて歩けないのです」と、後ろからついて帰りました。午後、校長先生に道で会いました。校長先生は「3年生が軍管区司令部でたくさんけがをして、東照宮の下にいる。人手が足りない。手伝ってもらえないだろうか」とおっしゃいましたが、私は事情をお話ししてお断りしました。〈今は、母一人を残しては、どこへも行けない〉と思ったからです。

夕方になって、お隣の奥さんの遺体を、倒れた家の下からご主人が掘り出されました。遺体はきれいなままでした。ちょうどその時、その家の長女ののりちゃんが動員先から帰ってきました。のりちゃんの妹さんは、女学校1年生で、建物疎開作業に行っていて、全身大やけどを負って防空壕に寝かされていましたが、たった一人で息絶えていたそうです。それで、私の妹の幸枝は、お隣の奥さんと一緒に、どこかへ逃げたのだろうかという母の希(のぞ)みは絶たれてしまいました。

妹もわが家の下敷きになっているに違いないと思っても、女手ではどうにもなりません。翌日夕方になって、やっと、家路へ急いでいるという消防団の人に無理にお願いして、倒れた家を掘り起こして、妹を捜してもらいました。母が「いたよ、幸枝がいたよ!」と大声で叫びました。足が見えてきました。藤色地に水玉模様のワンピースも見えてきました。

妹は、首に大きな家の梁(はり)を受けていたから「おそらく即死だったのでしょう」と、消防の人が言われました。ピカッと光った瞬間、妹は「お母ちゃん!」と一声、大きな声で叫んだということでしたが、母も建物の下敷きになって動けないので、「幸枝ちゃん、すぐに行くから待ってなさい!」と、叫んだそうです。母は、やっとがれきをかき分け外に出てみましたが、誰も見当たらなかったそうです。妹の身体は、まだやわらかく、かすり傷一つなく、まるで眠っているままの姿で母に抱かれていました。妹は小学校1年生でした。

そばに、どこからか、おはぎが一つ、転がり出ていました。それは前日、姉19歳、妹7歳の誕生日を祝って、母が心を込めて作ったおはぎでした。母は、6日のおやつで妹に食べさせようと思って残していたのでした。昨夜の家族そろっての夕食、姉や妹の笑顔が目に浮かんできました。

妹の遺体は、母と二人で抱いて東練兵場へ運びました。そこでは、山のように積み上げられた遺体を、どんどん燃やしていました。ごうごうと音を立てながらすごい勢いで燃えていきます。手を合わす間もなく、妹の水玉模様のワンピースも燃えてしまいました。妹はおとなしい優しい子でした。

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