【東日本大震災語り部・五十嵐ひで子さん】震災の記憶と教訓を次代へ 九死に一生を得た経験から

県外の学生に、自らの体験を話す五十嵐さん。優しく語り掛け、命の大切さを訴えた

東日本大震災の発生から、今年3月で9年を迎える。当時、9.3メートル以上の波の高さを記録した福島・相馬市で、五十嵐ひで子さんは、夫と叔父を亡くし、自身も津波にのまれた。これまで、五十嵐さんは震災の記憶と教訓を継承しようと、語り部として自らの体験を伝えてきた。語り部を続ける思いを聞いた。

「逃げっぺ」と言えていたら 叔父と夫への思いを胸に

――東日本大震災が発生した時、どのような状況でしたか?

当時、相馬市の原釜尾浜(はらがまおばま)海水浴場の近くで、民宿を営んでいました。お客さんが出掛けた後、私が一人、仕事の合間にくつろいでいると、「ゴゴゴゴゴゴー」と海鳴りが聞こえてきて、激しい揺れが起きました。揺れが収まり、しばらくすると、夫が仕事から帰ってきました。地震で散らかった家の中を、お客さんが帰ってくる前に片付けなければと、夫と二人で掃除をしていると、家の外から多くの人の声が聞こえてきました。

外に出ると、近所の人たちが海を見て、波が退(ひ)けたかを確認していました。この地域では子供の頃から、「波がずっと沖に退けたら、倍の高さになって津波が来る。退けたら逃げて」と教えられていたのです。そのことを覚えていた近所の人たちが、何度も波の様子を見に来ていましたが、波は一向に退きません。空を見上げると、どんよりとした鉛色で、空気は重く、とても寒く感じました。

海を背に、かつて自宅があった場所に立つ五十嵐さん。現在は、同じ場所に防潮堤が建てられている

そのうちに、消防団が避難を呼び掛けに来ました。「今、岩手と宮城にものすごい津波が来てるから、みんな、逃げてけろ」。しかし、私たち家族はなかなか逃げませんでした。一つは、波が退けていないこと。もう一つは、その二日前に、宮城県で震度5弱の地震があったものの、津波の心配がなかったからです。そのため、どうせ津波が来ても、大したことはないだろうと、侮っていたのです。

本震発生後から余震が何十回にも及び、どんどん怖くなってきて、私たちも逃げることにしました。同居する叔父の手を引き、夫と家の外に出て振り返ると、音もなしに黒い水の塊が、背後に迫っていたのです。次の瞬間には、波に足をすくわれ、体を4メートルほど持ち上げられました。3人で隣の家の松の木につかまり、てっぺんまで登りましたが、波は私たちの頭上を越えていきます。そのうち、私から叔父の手が離れてしまい、夫も流されていきました。夫は「ひでこー、ひでこー、ひでこー」と、普段は呼ばない私の名前を三度呼んで、波にのまれていきました。「お父ちゃーん」と叫びましたが、声は返ってこず、生きている姿を二度と見ることはありませんでした。

私も波に流され、暗い水の中で上も下も分からない状態でした。息が苦しく、何かにつかまろうと、もがくうちに気を失いました。体に冷たいものが触れ、目を覚ますと、顔以外はがれきに覆い尽くされていました。自力で抜け出し、「助けて」と声を上げると、消防団に救出されて再び気を失いました。その後、家族を捜していた父によって病院に運ばれました。あと5分遅かったら、低体温症で死んでいたと、後に知りました。

――語り部を始めたのはどうしてですか

「父ちゃん、早く逃げっぺ」の一言さえ言えていたら、と自分をずっと責め続けていました。地震後、雰囲気がおかしいと思った時に、また、消防団に避難を促された時に、どうして逃げなかったのか――自分の判断力のなさが家族を巻き込み、悔しい思いでいっぱいでした。

震災発生から数カ月が経った頃、友達から言われました。「ひでちゃん、そんなに自分を責めないで。これは天災だからしょうがないんだよ。ご主人の『ひでこ』の叫びには、『おまえだけでも助かれよ、頑張れ』っていう思いが込められていたんじゃない? 貴重な体験として語り継いで」。この言葉をきっかけに、必死に語ってみようかなと思いました。

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