【東日本大震災語り部・五十嵐ひで子さん】震災の記憶と教訓を次代へ 九死に一生を得た経験から

亡くなった人への供養に メッセージを伝え続けて

――体験を語ることはつらくはありませんか

震災翌年の9月から語り部を始めましたが、3年ぐらいはつらくて仕方ありませんでした。初めての時は涙しか出なくて、話すことができませんでした。叔父の手が私の手から離れてしまった瞬間、夫が流されていく様子、私の名前を呼ぶ声、それを思い出しながら話しますからね。今でも話していると、涙が込み上げてくることがあります。

それでも、これが第二の人生だと思っているから、続けられているのだと思います。私自身は津波にのみ込まれましたが、九死に一生を得ました。後悔の念とともに、夫の思いも胸にずっと残っています。語り部として体験を基に、「自分の命は自分で守るんだよ」というメッセージを伝えています。また、「逃げたら戻らないでね」とも話しています。相馬では、津波が来るまでに1時間かかり、あの日はみぞれや雪が降るほどの寒い日でしたから、着の身着のままで逃げた人たちが、津波がなかなか来ないので、衣服を取りに家に戻ったんですね。それで、津波に遭い、亡くなった人が大勢います。ですから、一度逃げたら、戻らないでと伝えています。教訓にしてほしいのです。

“夫と叔父と一緒”に、五十嵐さんは被災体験を語り継いでいく

語り部はつらいことばかりではないんですよ。涙を流して聞いてくれる人、「感動した」と声を掛けてくれる人、何度も話を聞きに訪れてくれた人に出会うと、私の思いを分かってもらえた、願いが伝わったんだと、うれしくなります。

夫と叔父も喜んでいると思うんです。旦那さんを亡くした経験を持つ人はたくさんいると思いますが、亡くなって何年も経つと、遺(のこ)された奥さんは旦那さんのことをわざわざ話さなくなるでしょう。私の被災体験は夫も一緒だから、夫のことも話せます。「今日も、叔父と夫を連れてきました」とお話しする語り部の時は、二人がそばにいてくれる気がしています。

――あの日から間もなく9年を迎えます。震災を風化させないためにはどうすればいいでしょうか

あの日を忘れないのではなく、「地震が起きた時に、どうすればいいのか」を後世に残すことが“風化させない”ことだと思っています。あの日を忘れたくても、忘れられない人がいます。そういう中では、忘れることが悪いことだとは思いません。ですが、地震が起きたら、「海から逃げる」「逃げたら戻らない」、そういった意識を持ってもらうことが大切なんです。

一昨年に政府主催、昨年は県主催の追悼式に参列し、大勢の前で追悼の言葉を述べました。震災を体験していない人たちの前では「伝えなきゃ」という思いでいっぱいでしたが、地元で話した時に、語り部をすることは、亡くなった人たちへの供養になるんじゃないかと感じました。昨年9月に、私の命を救ってくれた父が亡くなり、さらにその思いは強くなりました。

これまで、悲しくて、悔しい気持ちばかりが心を占めることもありましたが、多くの人と触れ合い、話を聞いて頂いて、聞きに来てくださった皆さんと笑うこともできるようになりました。最近は皆さんに、「笑えるところは笑っていいですよ」と話します。悲しい映像はこれまでにたくさん見られていますから、伝えたいことはしっかり話しつつ、時には笑ってもらって、印象が残るように私の話もバージョンアップしています。

どうか、機会がありましたら、相馬に来てください。

プロフィル

いがらし・ひでこ 1948年、福島・相馬市生まれ。2012年から相馬市観光協会の「震災語り部」として活動し、県内外の学校の防災講習や、同市震災資料館「伝承鎮魂祈念館」などで東日本大震災の体験を語っている。18年に政府主催「東日本大震災七周年追悼式」、19年に福島県主催「東日本大震災追悼復興祈念式」で追悼の言葉を述べた。