立正佼成会 庭野日鑛会長 10月の法話から

後ろ姿で子供に教える

昔、中国に、「謝安(しゃあん)」という方(中国東晋の政治家)がいました。西暦320年から385年頃のことです。その方が家庭で奥さんから、子供の教育を全然していないじゃないかと言われたらしいのですが、その時、謝安はこう答えています。

「あなたは、子供にいろいろ文字を説明したり、叱ったりすることが教えることだと思っているようだが、私は、四六時中、子供に教えているつもりだ。子供の先生のつもりでもいる。口や手でやらぬだけのこと。体全体で教えているつもりだ」と。

この方は、よく調べてみますと口やかましく言ったり、しつけだと言って手でたたいたりしません。日常の謝安という方の姿を見ているだけで、それが教育になるという素晴らしい方でありました。

開祖さまも、私たち子供からすると、ご供養の時間から、本部に出掛ける時間から、ピチッと毎日、同じようなリズムで過ごされていました。私ども子供は、朝のご供養になかなか間に合わずに、遅くなることもありましたけれども、開祖さまはいつも同じように始められていました。開祖さまも、謝安という方と同じように、体で教えてくださったのだと、今そう思います。
(10月4日)

画・茨木 祥之

生きた身のままで仏に

私たちは毎日、久遠の本仏さまにお参りしています。人間の理想像である素晴らしい仏像に礼拝(らいはい)することで、恭しい、厳粛な気持ちになります。そうして修行をさせて頂いています。

仏像を礼拝するのは、言ってみれば方便の一つです。元々は凡夫(ぼんぷ)である私たちが、仏になるための方便としてお参りをさせて頂くことで、仏にならせて頂く気持ちを起こさしめられるわけです。死んでから、仏になるのではなく、私たちは生きた身のままで、仏になっていく――それが、私たち仏教徒の修行のあり方です。
(10月4日)

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