立正佼成会 庭野日鑛会長 1月の法話から

日常生活が仏道修行

「仏になる」「仏になっている」と大乗仏教ではいうわけですが、本来、私たちが仏になっている、成仏しているというのであれば、修行する必要は少しもないのではないかとの疑問が起こります。

大乗の立場では、修行が必要であるというのではなくて、修行という立場から見れば全てが修行であり、成仏という立場から見れば全てが成仏し終わっていると、そのように教えられています。

すなわち、「修行」と「成仏」は同じものの表と裏とでありまして、常に修行しつつ、常に成仏し終わっているということであります。もっと具体的に言いますと、われわれの日常生活がそのまま仏道修行であり、それが同時に仏の衆生救済の活動であると、大乗仏教では教えているのです。

法華経に説かれています「即是道場(そくぜどうじょう)」も全く同じことで、私たちの日常生活がそのまま仏道修行であって、同時にそれは仏の衆生救済であります。家庭にあって親が子供を真心を込めて育てる。また、人々と交流を図る。そうしたこと全てが仏道です。日常の生活がいかに大切であるかが分かります。
(1月7日)

真剣に取り組んでみよう

「論語」の中に、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。ここには大変大きな意味合いがあるように思います。

孔子さまがここで、「道」という言葉で表現しているのは、人生を真実に生きるためには「天地人生を貫いている根本真理」を体得しなければならないということです。従って、そうした天地人生を貫く根本真理を身につけることができたら、自分はいつ死んでもよいという意味がこの短い言葉にはあるのです。

私たちも、仏さまのみ教えにご縁を頂いていますが、そのような気持ちでいるかどうかを、この言葉から受け取ることもできます。短い言葉の中に、孔子さまの人生の探究に対する真剣な気持ちが伝わってきます。私たちも仏さまのみ教えを頂いて、そうしたしっかりとした気持ちを持って、お互いさまに精進させて頂くことが大切です。
(1月15日)

画・茨木 祥之

絶対不変の真理

この世には「絶対不変の真理」があります。

第一番目は、「人は必ず死ぬ」ということです。そのことを、私たち人間は知っています。今、この式典の映像をご覧になっている方で、100年後も生きている人はいないでしょう。

二番目には、「自分の人生は自分しか生きられない」ということ。幼子(おさなご)が病気で苦しんでいれば、自分が代わってあげたいと思うのが親の心ですが、親といえども代わることはできません。自分の人生は自分しか生きられないのです。

三番目は、「人生は一回限りである」ということです。人生にはリハーサルもないし、再演もありません。人生は一回限りです。

四番目は、「この悠久の宇宙において、自分という存在はたった一人しかいない」ということです。過去に自分と同じ人間は生まれていないし、これからも生まれてきません。自分は広大無辺の時空の中で、たった一つの、一回しかないいのちを今、生きているのです。

こうしたことを、私たち一人ひとりに当てはめて考えてみますと、今生きていることが一つの奇跡であると感じます。そのような言葉でしか表現ができないいのちを、お互いに頂いているのです。
(1月15日)

自分に唱えて、心を整える

私は怒りたくなったら、「おんにこにこ はらたつまいぞや そはか」という真言を自らに言い聞かせています。

また、私たちは、一つの物事を行っても、「本当にうまく終了したか」「完全に終了できたか」「何かまだ抜けているところがありはしないか」という思いになることがあります。

幸田露伴を父に持つ、同じく作家の幸田文(こうだあや)さんは、実のお母さまが亡くなられて、お父さまから、きつく躾(しつけ)をされたそうです。そうした中、一日の中で自分がしたことに粗相(そそう)はなかったか、間違いはなかったかと、いろいろなことをもう一回振り返るために、「あとみよそわか」という言葉を、お父さまから与えられたそうです。

私たちはこういう言葉をいつも覚えておいて、物事をした時にきちんと振り返ってみなければなりません。一日の中でも、あるいは、ただ一つのことをする中にも、手落ちがよくあります。

そういう意味で、自分の心を整えていくために、「おんにこにこ はらたつまいぞや そはか」、そして、物事をした後に、「あとみよそわか」と唱えながら、一日一日を大切に生きていきたいという思いでいます。
(1月15日)