立正佼成会 庭野日鑛会長 6月の法話から

いのちの意味を伝えよう

仏さまは法華経の中で「今此(こ)の三界は 皆是(こ)れ我が有(う)なり」と説かれています。仏さまは、この三界は自分の体だとおっしゃっているのです。仏さまから見れば、世界は自分の体であり、山川草木(さんせんそうもく)の全てが仏の体、仏の身であります。

仏とは、大自然のいのち、それこそ天地のいのちであり、いのちの現れが山川草木です。全てが仏の御(おん)いのちであり、人間もその中の一つです。

今、若者の自殺がとても心配されています。私たちは生きている時も、仏さまのいのちを生きている、死ぬ時も、仏の体が死んでいく――いわば生かされて、生きている体です。ですから、自らのいのちを絶つことなく、仏の御いのちを有り難く頂いて、今生きている御いのちを生きること、そして、やがて年を取り、また病気などで死ぬ時は、死ぬ姿の御いのちを生きることが大事です。

コロナ禍の非常事態の中で、深い仏さまのいのちの考え方をしっかりと受け取っていきたいものです。受け取ることができていない方々には、そのことをお伝えし、希望を持って人生を生きていけるように導かせて頂きたいものです。
(6月1日)

合掌の姿

尊い神仏を合掌・礼拝(らいはい)すること、それが信仰だと思います。私たちは仏教徒ですから、仏さまを礼拝、お参りします。それは深く考えると、合掌・礼拝をする行為を通して、私と仏さまが一体不二(いったいふに)、すなわち一つだと体で表しているのであり、その瞬間に神仏と私たちは一つになっているのです。それが、日常の信仰生活の中で信仰心を高めていくことになります。

無心で、純粋で、敬虔(けいけん)な気持ちで合掌・礼拝をしている時は、私たちの心の中に「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」はほとんどなく、神仏と一体になっています。すでに仏になっている、仏そのものだと言えるのです。

合掌という姿は、仏と一つになることの方便で、人間はずっと昔からそのようにしてきました。尊い仏さまになりたい、仏さまになるのだ、という意識を持つというより、厳粛な気持ちで無心になって合掌・礼拝した時に、仏さまと一体不二、一つだということを形に表しているのです。

しかし、現実の自己に返ると、とても仏さまのような思いやりのある、慈悲心の深い人間ではないことを自覚し、また仏さまを合掌・礼拝して、そのようになりたいと思いながら精進させて頂いています。私は、そのこと自体が素晴らしいと思います。この世にはいろいろな生き物がいますが、人間だけがそうした「真善美」を求めてきたのは本当に尊いことです。その尊い道を、私たちは歩ませて頂いているのです。
(6月15日)

画・茨木 祥之

信仰の「型」を身につけて

信仰とは、限りない理想を目指して絶えざる向上を図っていくことがその中心です。そういう意味で、例えば「教会長」あるいは「支部長」といった「お役」そのものが「型」であると言えます。どうしたらその型をしっかりと身につけて、お役通りの働き、精進ができるかということです。

柔道、茶道、剣道など、全てに「道(どう)」がついています。私たちは仏道を歩んでいます。そうした道(みち)を歩む中には、みんな型があり、その型通りにしていくと、しっかりと剣道ができる、あるいは茶道ができるというように教えられています。常に稽古し、型を自分のものにすることによって、それが達成できるのです。

なぜ型を習得することで、それぞれの道でうまくできるのかというと、その型を通して、それぞれの小さな我、自我を取り去る働きがあるからです。型をしっかり稽古することがいかに大事であるかが分かります。「型がなかなかうまくできない」とか「型にはまるのが苦しい、嫌だ」という気持ちが出てまいりますが、先輩、先人の方々が、後輩の私たちを思う慈悲の心で、型をつくってくださったのです。型を通して、私たちはその「道(どう)」の道(みち)をしっかり歩むことができるのです。

合掌・礼拝、これも型です。私たちは本来、仏と一体であり、合掌・礼拝の型をとった瞬間に厳粛な気持ちになり、一つになるのです。しかし、その合掌をほどいて、普段の生活に戻ると、心が統一されていない自分を発見します。そして、また朝な夕なに、仏道を自らのものにしていきたいと考え、精進をしています。

そういう意味で、私たちは、毎日毎日、先輩の型を稽古する、朝な夕なに繰り返し繰り返し読経供養をする――このことを通して、少しでも仏格と人格が一つになる修行をさせて頂いているのです。
(6月15日)

急がず、休むことなく、繰り返す

好きな言葉の一つに、「星辰(せいしん)の如(ごと)く、急がず息(や)まず」があります。太陽や月の動き、あるいは夜空に輝いている星の動きは、一目では、動いているのか動いていないのか、分かりません。そうした太陽や月や星の如く、急がず、息まず、という意味です。

本当に遅々(ちち)として進まないのですが、急がずに、そして休むことなく繰り返し精進させて頂くことが信仰生活の上で、また人間としての心意気として大事であると思うのです。毎日、自らに言い聞かせ、過ごさせて頂いています。
(6月15日)