栄福の時代を目指して(8) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

強者の支配こそ正義?

前回は、プラトンのソクラテス対話編を参考に、生成AI(チャット君)や夢中でのトラギアスと青年哲学徒・即礼君の対話形式で書いてみた。書きながら想起していたのは、30代はじめにおいてイギリス・ケンブリッジ大学研修中に聴講したプラトン講義である。同大学では、客員研究員は他学部の講義も自由に聴講できるので、自分の属した社会政治学部以外の講義も、それぞれの建物に通って毎日聴講していた。この大学には古典学部があり、有名なM・F・バーニェト(イギリスの古代ギリシア哲学研究者)らによるプラトン対話編に関する講義も聴いた。講義ではギリシャ語で原典を読んでいたが、場面ごとに説明を加え、生き生きとその様子を語っていて、その対話の場に自分も引き込まれるような臨在感があった。連載でも、そういった感覚を少しでも味わって頂きたいと思い、即礼君の物語に託して関連する箇所をなるべく示していきたい。歴史の面影の漂う雰囲気が多々この大学にはあり、書いてみたい気もするが、今は筆を急ごう。

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即礼君は、自分の見た夢に、「たかが夢」では片付けられないリアリティーを感じて調べ始めた。これまで国際政治にはあまり関心がなかったのだが、代表的な学者たちが、トランプ政権の登場によって「大国の合従連衡(がっしょうれんこう)を特徴とする力の均衡」が世界に復活し始めていて(藤原帰一『世界の炎上――戦争・独裁・帝国』朝日新書、30頁)、「デモクラシーの帝国」だったアメリカが「強者の支配と弱者の従属、いわば弱い者いじめ」をする「プレデターの帝国」(同9頁、捕食者・略奪者の帝国という意味)に変化しつつあると述べていることを知った。新聞では、トランプが「ぼんやりと理想としているのは、米国、中国、ロシアによる『三頭政治』」であり、その関税政策には、自国の強みと相手の弱みを取引のテコとして使うという「『強い者が勝ち、この世には勝者と敗者しかいない』という論理」があるとするインタビューが掲載されていた(遠藤乾・東大教授に聞く『帝国の幻影 壊れゆく世界秩序』第1章 朝日新聞5月18日付朝刊7面)。ネット上では、三つの「帝国」と一つの「共和国連合」(EU)という表現をしている記事も見つかった。いずれも同じような見方だ。

「強者の利益こそ正義」というトラシュマコスの権力主義

――これらを読んで、即礼君は、プラトンが描くソクラテス対話編で似たような考え方があったことを思い出した。すると、「トラシュマコス」という名前が浮かんできた。「そうそう、『国家』に登場するトラシュマコスの議論だ」と思いながら、岩波文庫の『国家』(上・下)を本棚から取り出した。

哲学の最重要古典だから読んだことがあり、各所に線が引いてある。トラシュマコスとは、起元前5世紀後半に活動した実在の人物で、弁論術に演技的要素を持ち込んだソフィスト(ソクラテスより10歳以上年少)とされている。もっともこの作品での彼の発言は、プラトンが再構成したものと考えられているという。

その第1巻でトラシュマコスは、ソクラテスとポレマルコスとの議論を聞いていて苛(いら)立ち、割って入って「正義とは、強い者の利益にほかならない」という有名な議論を提起するのだ(338c)。つまり、各国の支配者(王や権力者)は自分たちの利益にかなうように法律を定め、市民はそれに従うことが「正義」とされるから、正義とは支配者(強者)の利益に従うことだ、と言ったのである。(ⅰ)

他方で、ソクラテスは、正義と徳と知恵は関連しているという想定に基づいて、不正義な国家は内部で不和や戦いを作り出すとして、協調や調和をもたらすゆえに、徳や知恵に基づく正義の正当性を主張する。これに対してトラシュマコスは釈然としないものの、沈黙するのである。

ここでトラシュマコスの現実論とソクラテスの論理との差違が浮き彫りになっている。そこで、トラシュマコスは権力主義的な非倫理的正義論の古典的な代表者とされ、それに対してソクラテスが理想主義的な倫理的正義論を主張したわけである。これは『国家』冒頭の重要な議論で、対話は有名な理想国家論へと展開していく。

カリクレスの快楽主義

即礼君は「トラシュマコスの議論はまさに勝者・強者支配を正当化するもので、トランプ政権に関して研究者たちが言っている発想は、まさにこの議論に対応するな」と思った。

ソクラテスの論理を適用すると、トランプ政権は、本当の徳と知恵を持っていないから不正義であり、アメリカの内部でいずれ不和や対立、争いが起こるから、失敗することになる。トランプ政権の側は実際に富や利益を手にしているから、権力者の政策が正義のように振る舞っているが、確かにアメリカ内部で対立が激化していて、デモをはじめ批判が燃え上がっているから、いずれ失敗しないとも限らない。「そういえば、『シビル・ウォー アメリカ最後の日』という映画が昨年、公開されて話題になっていたな」と彼は思い出した。これは悲惨な「内戦(シビル・ウォー)」を描いたもので、第2次トランプ政権の登場を予想して作られたものだと言われている。

――こうして少々の知的満足感を味わって悦に入っていると、先ほどと同じように「トラクレス」という名前が頭に閃(ひらめ)いた。いや、実際にはそういう小さなささやきが聞こえたような気がしたのである。

「……? トラシュマコスと似た名前だけれど、聞いた覚えがない。そういえば、似たような名前の登場人物が、この間見た本『ゴルギアス』に出ていたな」

これは、例の夢に出てきた「トラギアス」が「トランプ+ゴルギアス」だと思って調べた作品である。改めて手にとってみるとまさしくその通りだったが、登場人物は「カリクレス」だ。岩波文庫ではカㇽリクレスと表記されている。

「トラクレスではないけれども、このことかな」と思って読み直した。

ゴルギアス(紀元前5世紀)が政治家として活躍した後に亡命して弁論家として過ごしたとされているのに対し、アテネ市民のカリクレスは弁論術を学んだ現実政治家である。カリクレスは、ソクラテスと年長のゴルギアスやポロスとの問答の後で、対話に参加する。

カリクレスは、本来の「自然」によれば「正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことであるというふうに、すでに決定されてしまっているのだ」(483d)と述べる。自然本来(自然法)の正義(自然の正義)からすれば、優秀・有能な者は劣悪・無能な者より、多く持つのが正しいのに、世の中の大多数である劣悪な弱者が法律を作っており、民主的な平等のルールは、強者を抑圧するための策謀であると言うのだ。

もう一つ大事なのは、快楽についての議論である。カリクレスがさらに強者における快楽や欲望の追求を正当化するのに対して、ソクラテスは快と善の相違を認めさせ、知識に基づく技術(医術など)と経験に基づく迎合(料理術など)との相違を指摘して、知識や正義や節制などの徳が幸福には必要だと反論するのである。(ⅱ)

このようにカリクレスは激しい応酬をするが、論理的には反論できなくなって沈黙してしまう。解説を見ると、プラトンの『ゴルギアス』(中期の初期作品、40歳前後、紀元前387年前後)は、『国家』(中期の円熟期、40代後半、紀元前380年頃)より先に書かれたと推定されている。でもカリクレスの方が、トラシュマコスよりも挑発的・感情的で、快楽の議論がなされている点でこちらの方が内容は濃い。トラシュマコスと同様に非倫理的な権力主義を主張しているとともに、自然本来(ピュシス)の考え方のもとで、欲望・快楽の充足を幸福と見なす快楽主義を繰り出し、ソクラテスが魂の徳としての正義という倫理的な議論を対置しているからである。

――「だから、トラシュマコスを調べるだけではなく、この作品も調べる必要があったのか」と思い、即礼君は、「トラクレス」というささやきには理由があったのだと納得した。

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(ⅰ)これに対してソクラテスが、支配者の誤りにより、定めた法律が自らの利益にならないこともあると反論すると、トラシュマコスは、「真の意味での支配者は決して誤らない」と議論を更新する。これを受けて、ソクラテスはアート(技芸=テクネー)の議論(前回参照)を当てはめ、医者や専門家と同じように、本当の支配者(知識ある統治者)の場合は被支配者の利益を図るのであって自分の利益を図るのではない、と述べる。すると、トラシュマコスは現実には、独裁的な僭主(せんしゅ=非合法的な手段で支配者となった者)のように、不正義の人の方が正義の人より富や利益、権力を得るから、正義は強者の利益であって、不正義は自分の得になる、と自説で反論する。これに対して、ソクラテスは、正義は徳であり知恵であるのに対して、不正義は悪徳であり無知であることに論理的に同意させた上で、不正義な人や国家は内部で不和と憎しみと戦いをつくり出す一方で、正義は協調と友愛をつくり出して、正しい人は魂の徳により「善き生」を送り幸福を得ると述べる。(338A―354C)

(ⅱ)つまりカリクレスによれば、本来、人間の快楽や欲望は自然なものであり、正義や節制の徳でそれを抑えるのは不自然で、贅沢(ぜいたく)や放埒(ほうらつ)や自由で欲望を抑えずに満たし続ける人間こそが徳を持ち幸福である。そして哲学などを大の大人がするのは滑稽だと哲学者・ソクラテスをばかにして、成熟した大人には実務の感覚を培うように勧める。それに対し、ソクラテスは、上記のように反論して、善には徳が必要であり、規律と秩序が善には必要なので、秩序ある魂には節度と思慮、さらに勇気と敬虔(けいけん)があって、幸福になるためには節制をはじめ徳を修めるべきであり、放埒を回避しなければならない、と言う。宇宙がコスモス(秩序)と呼ばれているように、人々を一つに結びつけるのは、共同、友愛、秩序、節制、正義であり、個人の場合と同じように国家を幸福にするためにはこれらが必要だから、市民が優れた人になるように配慮するのが、公共のために働く政治家の務めであり、現代ではソクラテスだけが本当の政治の仕事を行っている、とまで主張する(481b―527e)

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