栄福の時代を目指して(3) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

地球的栄福文明に向けて:前進と反動のサイクル

これらの問題を抜本的に解決するためには、人間の精神の次元に再び目を向けて、文明全体を再建するしかない。この連載でいう、徳義共生主義(コミュニタリアニズム)やポジティブ心理学はこの要請に対応する学問だ。これらを世界的に拡大して、地球的な公共哲学を推進する必要がある。地球的な徳義共生主義、つまりグローバル・コミュニタリアニズムを築いて、地球的な栄福文明への道を開拓することが、私たち人類の将来へのビジョンだ。

その方向は、例えば「持続可能性」(サステイナビリティ)や「持続可能な開発目標」(SDGs)として国連などが世界的に推進しているから、聞いたことのある人も少なくはないだろう。私が関わってきた学問的プロジェクトでは、公共哲学という概念を中軸にして、これらを積極的に進展させることに努めている。アイデンティティーについても、グローバルなアイデンティティーを新しく創(つく)り、グローバル・ナショナル・ローカルな複層的アイデンティティーを実現して、「グローカル」(グローバルにしてローカル)な複層的文化と政治経済を実現するように提案してきた。

このようなグローバルなビジョンは、ソ連が崩壊した後に、地球市民(グローバル・シティズン)などの概念で言われていた楽観的未来像とも共通している。当時はEU(欧州連合)が先進的モデルとなって、市場経済と民主主義が世界的に拡大して、地球的な統合が前進することが期待されていたのである。

ところが、今や、一国主義や排外主義を唱えるポピュリズムが我が世の春を世界的に謳歌(おうか)して、このような楽天的ビジョンは萎(しぼ)んでしまったように見える。しかし、意気消沈して根本的ビジョンを放棄する必要はない。実のところ、このような未来が実現するためには、一度、既存の仕組みや制度が限界に達して、混乱が生じ、それを乗り越えていく必要があるのだ。上述したさまざまな大問題は、いずれも新しい文明が生まれ出(い)ずる過程における反動であり、その先にこそ、地球的な新文明が出現していく。このような「前進→反動→躍進」というサイクルが生じるのは、大変動における世の常である。

かつて、「政治改革」という名のもとに選挙制度の改革が行われた時、私はその改革に反対して日本の議会政治が戦前のように失敗して専制へと戻ってしまうことを危惧した。当時は極めて少数の考え方だった。以前の民主党政権が実現した際には、正反対の楽観的雰囲気が生じていたが、実際に安倍政治においてこの危険が現実のものとなった。しかし日本政治はそれを乗り越えて、新しい徳義の政治へと向かう可能性が生じている。同じように、世界的ビジョンについても直線的に進むわけではないことも想定していた。この予想も顕在化してしまった。まだこれを乗り越える可能性は、明確な形では結晶していない。しかし、日本政治に起こったようなサイクルが、世界でも生じていくという希望が私たちにはあるのである。

和の国の文明的役割

では、私たちの目指すべき未来は何か。前述したように、英米仏をはじめ西洋先進国にはもはやモデルを求めることができない以上、これからは、徳義共生主義のような新しい思想や理念のもとに、自分たち自身の知恵によって新しい社会を創造していく必要がある。

そして世界的には、西洋文明ではない日本文明の特質を生かして、「和の国」としての平和主義的理念を世界に投影していくことが望ましい。私自身は、中東については、9・11後の国際紛争においてアメリカに追随するのではなく、独自の観点から平和外交を行うことが望ましいと主張してきた。ウクライナ戦争初期においては、世界的連帯に基づくウクライナの抵抗を支援することは、世界的秩序の崩壊を食い止めるために必要だったが、その後には停戦と和解へと働きかけることが重要だと考えてきた。当時の方が、今よりも、ウクライナにとって有利な停戦が可能だっただろう。日本の力でできることは限られているが、現実の中でそのような平和主義的貢献を可能な限り追求して、来るべき地球文明に貢献することが、日本文明に与えられた役割であり、使命だ。

折しも、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞して、12月10日にはオスロで授賞式が行われた。戦乱の拡大にあって核戦争の危険が高まっている今、日本の悲惨な体験に基づいた継続的努力が、世界の良心によってスポットライトを浴びた。これは、平和憲法の理念に基づいて日本の果たすべき役割がどこにあるかを如実に示している。

文明の過渡期において混乱は避けられないし、それがどのような規模で起こって、どのような道筋で乗り越えていくことができるかは、定かではない。この渦中にあって、私たちは、地球的平和の実現へと寄与し、来るべき地球的な栄福文明への先導役を果たしていきたいものである。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)』など。