食から見た現代(4) 「おかわり」と言えない高校生〈後編〉 文・石井光太(作家)

私自身、少年院や児童養護施設の取材で、「十数年、コンビニのメロンパンだけを夕食として食べつづけた」とか、「お腹(なか)が空いたら粉ミルクの粉を食べていた」といった声を聞いたことがある。それと似たような生徒も少なくないのだろう。

私はすぐ近くで給食を食べていた男子高生に声をかけてみた。彼は母親が給食費を払ってくれなくなったため、数カ月前から給食を止めていたが、この日は佐藤氏が自分の分の給食を与えていた。彼は中学時代の不登校を経て定時制に来たが、精神が不安定で少し前にもオーバードーズ(薬の大量服薬)をしてしまったという。

私は尋ねた。

――毎日何時くらいに起きて何回くらい食事してるのかな。

「起きるのは昼くらい。日に1食か、2食です」

――お腹は空かないの?

「わかんないです」

――食べる時は親が用意してくれる?

「親は作ってくれないです。お腹空いたら家にあるもので自分で作ります」

――例えば何を作る?

「パンとか、白いご飯とか? あるものを食べるって感じです」

――外で食事をしたり、コンビニで買ったりする?

「ないです。お金もったいないし」

短い会話からも、この生徒の食生活がおぼろげにわかった気がした。おそらく給食が絶たれた今、彼は栄養バランスの良い食事を取る機会はほとんどなくなっていると言っていいだろう。

佐藤氏は言う。

「食堂にやってくる生徒が給食を残すことはまずありません。好き嫌いなく全部食べる。おそらくお腹は減っているのでしょう。でも、不思議なことに、彼らは誰一人としておかわりをしないんです。その日余った給食はおかわりとして食べていいルールになっているのに、誰もそうしようとしない。自分の分だけをきちんと食べたら、残り物には目もくれずに教室に帰っていくのです」

なぜなのか。

「不登校の子はコミュニケーションが下手だとか、本音を言えないという話をしましたよね。それと同じで、生徒たちは自分がまだ食べ足りない状態であることを実感して、そのことを言葉や行動で自己表現することができないのかもしれないんです。中には満腹になって幸福を感じるといった経験をしたことのない子もいる可能性もある。だから、体は栄養を欲しているはずなのに、『おかわり』と声に出して言うことができないとも考えられるのです」

これを聞いて思い出したのが、以前こども食堂を取材した時のことだ。そこで聞いた話では、こども食堂でおかわりをするのは比較的裕福な子で、本当に貧しい子は『もっと食べたい』とも言わなければ、余った食事を持って帰ろうともしないということだった。スタッフによれば、彼らは遠慮しているというより、満腹になることの喜びを知らないらしい。だから、こども食堂で何度かその経験をさせると、少しずつおかわりをしたり、持って帰ったりするようになるという。きっと定時制高校の生徒たちにも似たようなことが当てはまるのだろう。

食堂で給食の見学を終えた後、私と佐藤氏は生徒指導室に戻った。

ドアを閉めてしばらくすると、校内に2時間目の授業開始のチャイムが鳴り響いた。クラスの7割の生徒は給食を食べ、3割は何も食べていない。ここにも格差がある。

佐藤氏は紙にプリントした資料を出した。埼玉県内の定時制高校で実施した調査だという。彼は言った。

「現在、埼玉県には25の定時制高校があります。それぞれの学校で、生徒がどれくらい給食を取っているかを調べた結果がこれです。ご覧になれば、うちの学校の生徒が特別に悪い状況にあるわけではないことがわかると思います」

埼玉県の定時制高校では、給食の時間は1時間目の授業開始前か、1時間目と2時間目の間だ。統計上は全定時制高校の6~7割が給食を食べていることになっているが、浦和高校の定時制など「全員給食制(全生徒が給食を取る決まり)」の学校が複数あることを踏まえれば、給食が希望制の定時制高校で給食費を払って毎日食べられているのは半数ほどと考えていいだろう。

高校生くらいの年齢でしっかりと栄養ある食事を摂れるかどうかは大きい。定時制高校の給食を無償化するような動きはないのだろうか。佐藤氏はこう話す。

「埼玉県は無償化どころか、補助金さえ出していません。かつて年間90日働いている生徒は一食につき30円前後の補助金が出たのですが、一般財源化されたことでその予算は別の事業に充てられることになってしまいました。むしろ、近年の物価高の影響から、来年からは一食当たりの給食費が値上がりすることが決まっています。これではますます給食を食べない生徒が増えるでしょう」

実態を聞いて、胃が締めつけられる気持ちがした。そもそも給食とは、明治時代に貧しい子どもたちを学校に来させるために設けた制度だ。無償で昼食を提供することによって子どもを教育につなげようとしたのがはじまりなのだ。

現在、自治体によっては小中学校の給食の無償化を実現しているところもある。だが、家庭に問題を抱える生徒たちが多く集まる定時制高校は、義務教育ではないという理由で検討の対象になりにくく、困難な状況にある生徒であればあるほど給食に手が届きにくくなっているという現象が起きているのだ。

佐藤氏は話す。

「定時制高校の生徒にとって給食はなくてはならないものだと思います。給食を食べられるから学校へ来るという子もいれば、給食によって初めて食の楽しみを知ったという子もいます。他人と食事をする楽しさを知ったという子だっている。そこから家で経験できなかったたくさんのことを身につけるのです。定時制高校に通う子にとっては、給食は学力と同じくらい、いや学力よりも多くを学ばせてくれるものなのです」

私の脳裏に何度も、前編の冒頭で述べた須藤咲妃(仮名)のことが浮かんだ。彼女は家でも学校でもまともな食事を摂れず、夜の街を漂流することになった。もし彼女が定時制高校で給食を食べることができていれば、学校をやめることなく、そこまで転落することはなかったかもしれない。「たられば」ではあるが、彼女のような子どもにとって給食は一生を左右するものになる可能性があるのだ。

この晩、取材を終えて学校から出ると、冷たい雨が降っていた。広いグラウンドでは、サッカー部の生徒たちがぬかるんだ地面でボールを追いかけている。全日制の生徒たちだろう。全身泥だらけになって元気に声を上げている。

同じ学校でも、全日制コースに通う生徒たちは、定時制の生徒たちと交わる機会がない。きっと彼らは私の高校時代と同じように、朝昼晩の食事の他にいろいろと間食しながらあり余るエネルギーを得ているのだろう。まさか、同じ校舎で授業を受けている定時制の生徒たちが、給食さえ食べられずにいることなど想像もしていないはずだ。

校舎を見ると、一階の教室には明かりがついていた。定時制の私服の生徒たちが無表情で黒板の方を向いている。教室の窓に当たる雨の粒が、やたらと冷たく見えた。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『遺体』『浮浪児1945-』『蛍の森』『43回の殺意』『近親殺人』(新潮社)、『物乞う仏陀』『アジアにこぼれた涙』『本当の貧困の話をしよう』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)など多数。その他、『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。』(ポプラ社)、『みんなのチャンス』(少年写真新聞社)など児童書も数多く手掛けている。

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