TKWO――音楽とともにある人生♪ トランペット・本間千也さん Vol.2

新潟県の佐渡島で生まれ、18歳まで過ごした本間千也さん。中学の吹奏楽部でトランペットと出会い、高校3年生のときにチャレンジした「トランペット・フェスティヴァル」に合格したことで、プロの道を意識した。大学進学というそれまでの進路を変更し、上京。音楽にかけた一途な情熱について聞いた。

苦学した後 大物演歌歌手のバックバンドから声が

――上京後、音楽の勉強は大変でしたか

そうですね。東京コンセルヴァトアール尚美(現・尚美ミュージックカレッジ専門学校)進学後は、親に負担をかけたくなかったので、2万3000円の風呂なしアパートに住み、アルバイトで生活費を稼いでいました。アルバイトに関しては、本が一冊書けるぐらいさまざまな職種を体験しましたね。

朝早くに学校に行って、午後8時半まで練習し、銭湯に駆け込む。それから深夜3時まで焼肉屋でアルバイトをするといった毎日でした。尚美に入学して多くの優秀な学生に出会い、佐渡島で井の中の蛙(かわず)だった僕は、「負けたくない」と気持ちに火がつき、6年間の在学中、猛烈に練習に取り組みました。

卒業後は、楽団に所属するようなことはできずに、フリーランスとして活動し、その2年後、演歌のバックバンドに誘われました。その頃、一緒に仕事をしたギターの方が、瀬川瑛子さんのバックバンドのレギュラー奏者だったのです。僕のトランペットを気に入ってくださって、瀬川さんのバックバンドのメンバーにと声を掛けてくれました。それまでは、音楽に関係のないアルバイトで生活し、演奏活動をしていましたが、バックバンドの仕事を始めると、トランペット一つで生活できるようになりました。自分の目標がありましたから、その後も、コンクールに出場し、プロのオーケストラのオーディションを受け続け、1997年にシエナ・ウインド・オーケストラ(シエナ)に入団することができ、道が開いていった気がします。

――プロになるまでは厳しかったですか

やはり、いくら練習を重ねたからといって、必ず道が開くというわけではありませんから、なかなか自分のしたい演奏活動ができない時期は苦しかったですね。私の周囲では、演奏家の道を早くに諦めて、音楽とは無縁の仕事に就くことが珍しいことではありませんでした。ですが、自分には、他の道はないと思い、30歳までは、コンクールやオーディションにチャレンジすると決め、頑張っていました。諦めきれなかったのが良かったのでしょうね。

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