「バチカンから見た世界」(168) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

-国家イデオロギーとなった米国とロシアのキリスト教/教皇の説くキリスト教(1)-
ローマ教皇レオ14世は6月9日、120を超える国々からバチカンに参集したローマ教皇庁宣教事業部(POM)総会の参加者たちに向かい、キリストが弟子たちに直接になした問い、「人々の間で、人の子(人間となったキリスト)を何者だと思っているのか」(マテオによる福音書16章13節)を突き付けた。人間の救いと、キリスト教のみならず、世界諸宗教の存在理由に共通する問いだった。「人の救いは、人となり十字架上で亡くなったキリストのみ」にあり、その「キリスト」を国家イデオロギーとなったキリスト教で置き換えてはならない、との警告としても受け取れる問いなのだ。世界で民主主義が後退し、独裁政権、君主国家、強権政治へ向けた兆候が強まる中、政権を支える国家イデオロギーとなったキリスト教、ユダヤ教、ヒンドゥー教が台頭してきているからだ。
世界に対するレオ14世の警告は続く。キリストの時代に、「残忍なる権力のサークル、裏切りと不忠実の場」では、人々が「キリストに重要性を認めず、彼の予想外な発言と行動によって、興味深い人物としては受け取るが、彼の存在が誠実さや倫理の視点から煩わしくなると、“この世界”は彼を拒否し、抹殺することを厭(いと)わなかった」と言う。また、ごく一般の人々にとって「キリスト」は「詭弁(きべん)士」ではなく、「正しく、勇気があり、イスラエル史上(旧約聖書)に登場してくる偉大な預言者のように、正しいことを言う」と信じるが、「彼を人間としてのみ受け取り」、「例えば、キリストの受難のような場面に出会うと、彼を見捨て、失望して遠ざかる」とのことだ。キリストの前で「人間が示す、この二つの態度が、現代世界を象徴している」とレオ14世は説く。人間が「技術、金融、成功、権力、悦楽に自身の保障を求める世界」にあっては、「福音を説き、そのメッセージ(人間となった神が十字架上での死を通して人類を救った)を信じる者が、嘲笑され、反意を受け、侮辱される」からだ。では、レオ14世の主導するカトリック教会が説く「人の救い」とは、どういうものか。
教皇は6月10日、聖年を祝うためにバチカンへ参集した各国の教皇大使たちを前に、「教皇と教皇大使の使命」について、新約聖書の「使徒行録」(3章1-10節)を引用しながら説明した。エルサレムの神殿の前で毎日、施しを乞う半身不随の男と、キリストの筆頭弟子(初代教皇)であった聖ペテロのやりとりに関する逸話である。教皇は、その施しを乞う男を「希望を失い、諦めてしまっている人類のイメージを見ているようだ」と注釈を付けて紹介している。「現代世界でも、カトリック教会は往々にして、もう喜びを持たず、社会が底辺に押しやり、言うならば、自身の存在そのものをも乞い願わなければならない人々に出会う」のだと言う。聖ペトロは半身不随の男に言った。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレトの(人間となった神)イエズス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして「右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人(のキリストの弟子)と一緒に神殿内に入って行った」のだった。
レオ14世が説くキリスト教による「人の救い」は、巨大な富の蓄積や、当時のユダヤを占領、抑圧していたローマ帝国と“天使の軍団”を指揮して戦うことによって得られるものではない。十字架上で死ぬほどに人類を愛したキリストへの信仰によって実現されるものだった。“十字架上の逆説”によって実現されたのが、キリスト教の説く「人の救い」なのだ。さらに、貧しい人々、社会で虐げられている人々が「優先的に救われる」(貧者の選択)というのが「聖書のメッセージ」なのだ。
ところが、教皇が生を享(う)けた米国には、「巨大な富の蓄積」が「神からの祝福」であると信ずるキリスト教徒のグループが存在する。第1次トランプ政権の選出基盤となり、レオ14世の選出を「最悪の選択」(トランプ大統領の元側近、政治戦略家のスティーブ・バノン氏)として非難する、極右翼系白人のキリスト教徒たちで、「福音派」(evangelical)と呼ばれていた。第2次トランプ政権が成立してからは、「MAGAクリスチャン」と呼ばれている。トランプ大統領の主張である「Make America Great Again」(米国を再度、偉大とする)を支持するカトリック信徒を含むキリスト教徒たちだからだ。
2024年の大統領選で再選を狙っていたトランプ氏は、選挙戦に際し、「神が、ある理由によって(7月13日の狙撃事件から)私の命を救われたが、その理由とは、我が国を救い、アメリカの偉大さを回復することだと、多くの人々が伝えてくれた」と発言していた。さらに、同大統領は、カトリック教会史上初の米国人教皇を選出したバチカンでの教皇選挙(コンクラーベ)前には、自身のSNSアカウントに「教皇の衣装を着た自身のイメージ」を投稿していた。国際世論は、その投稿を「滑稽」として報道はしても、トランプ大統領が真に意図するところまでは理解し得なかった。米国を再度、偉大とするために「神によって救われた大統領」のイメージを、カトリック教会によっても認知させようとする試みと受け取ることができる。米国を救うために「神によって任命された」、言うならば「地上における神の代理人」(教皇)との宣言だったのだ。
民主主義を擁護する米国の伝統的キリスト教諸教会や諸宗教の指導者たちが、キリスト教を政権の基盤強化のために使うトランプ大統領を「王様」と呼び、君主制政権への移行を警戒し始めている。