栄福の時代を目指して(7) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

「解放の日」の既視感

本連載第5回では、青年哲学徒S・即令君が、科学アカデミーや左翼政党の勉強会に赴いて、先生方と問答をしたという設定でエピソードを書いた。私自身はマルクス主義に詳しいわけではないし、その資本主義批判には今でも意味があると思っている。しかし、この問答は、私が青年時代に父と交わした多くの会話に源流がある。唯物論ないし史的唯物論の限界という認識には、父という1人の人間の実存(研究人生)がかかっていると言って良い。その肩の上に私の視座が成立してきたのである。

――さて、今回も、即令君(S)に登場してもらうことにしよう。Sはトランプ政権の次々と打ち出している政策(前回参照)を傍若無人と思っていたが、ドナルド・トランプ大統領が4月2日に「解放の日」と銘打って、同盟関係にあった欧州や日本も含めてほぼ全世界に想像以上の高関税を課すと発表した様子を見て、言葉にならない衝撃を受けた。これは、戦後の自由貿易体制、さらにはアメリカ主導の世界経済を崩壊させる歴史的事件のように思えたからである。同時になぜかそこに既視感があったのだが、何と似ているのか思い当たらなかった。

Sは、調べる必要や疑問が生じた時に、生成AI(ChatGPT)をしばしば用いるようになっていた。これを「チャット君」と呼んで、人と対話をするように問答をするのであった。事実を指摘して反論するとチャット君は「深くお詫(わ)び申し上げます」と謝ってくるので、ソクラテスの問答のような気持ちになることもあった。

そこでいつものように「トランプ政権に似た政治はどこかにありますか」と尋ねてみたところ、チャット君は、今のアルゼンチンやハンガリー、インドのポピュリズム的ないし権威主義的な政権を幾つか挙げてきた。それらの政権を調べてみたものの、自分の既視感とは違う気がして、Sはすっきりしないまま、まだ日中なのにうたた寝をしてしまった。

トランプ風ギリシャ人・トラギアスという啓示夢

気がつくと、Sは広場で、力強く話す男の演説を聴いていた。よく見ると、恰幅(かっぷく)が良いその男は、「MAGA」という刺繍(ししゅう)の入った赤い野球帽をかぶって、肩を出して、ギリシャ風の衣装を着ていた。トランプ派の「Make America Great Again」(MAGA=アメリカを再び偉大に)と同じイニシャルだが、トランプとは少し風貌(ふうぼう)が違うなと訝(いぶか)しく感じた。群衆が「トラギアス! トラギアス!」と歓呼するので、その男の名前が「トラギアス」(以下、トランプ風ギリシャ人Trumpian Greekという意味も含めてTGと略す)だとわかった。

TG「諸君、私は土地の売買で大きな富を成した。だから市場のことはよく知っている。私は、神から使命を授かり、指導者となった。私は、この国を再度、偉大にする! 皆さんが生活苦に悩んでいるのは、他の国(都市国家:ポリス)が、貿易でずるいことをしていて、私たちよりも高い関税をかけ、私たちの富を奪っているからなのだ。だから、こちらも高い関税を課して、皆さんを救ってみせよう」

同じ野球帽をかぶった人々が、熱狂的に拍手喝采をした。「アテネを再び偉大に!」という叫び声が聞こえたので、このMAGAのAは「アテネ」だとわかった。ちょうどトランプ政権の政策を調べたばかりだったので、Sは勇気を出し、群衆の間をかきわけながら進み出て質問した。

S「その経済政策は、どのような経済学の理論に基づいているのでしょうか」

TG「私は信頼できる仲間とこの政策を練り上げておる。自分のビジネス経験に支えられているので、他の学者どもの意見など聞く必要はないのだ」

S「でも土地売買と、国の経済政策とは違うのではないでしょうか。土地売買なら、自分が利益を得ればいいのですが、国の経済となると、もっと専門的な知識や理論が必要なはずです」

TG「仲間には、投資や会社経営で巨富を成した者がたくさんおる。皆が専門知識を持っており、私はそのような者たちと常々意見交換をしているのだ」

S「でも、一流大学の世界的な経済学者たちがあなたの政策は、世界や私たちの国の経済を破綻させ、不利益をもたらすと言っているのを目にしました」

TG「けしからん。そのような者たちは、現場のビジネスを知らんのだ。自分で利益をあげられない経済学者の意見に意味はない。畳の上の水練という言葉があろう。そんなものだ」

S「あなた方が知っている技術は、金儲(もう)けの術ですね。でも、それはあくまで個々人が市場取引から利益を得るための方法で、国の経済の運営、いわばマクロな経済運営術とは違うのではないでしょうか」

TG「小賢(こざか)しいことを言うな。君の言う一流大学は、私の方針に従わずに、間違った教育をしている。だから、支援は止めるつもりだ」

S「どんな点で間違えているのですか」

TG「たとえば異邦人などの少数派を優遇する政策は、市民に不利益をもたらすから、私は廃止した。そして皆の者にもそれに従うように要請したのだが、無視した大学があるのだ。けしからん」

S「そんなことをしたら、自由に考えたり議論したりすることができなくなってしまいます。学術が後退し、他国との経済競争に負けて大きな損失を招きます」

TG「いや、奴らの所業は国を過つ。そのような組織を国が支援することはできぬ。科学機関でも、不要な研究には支援を打ち切る」

Sは、トランプもどきの政治家の言葉を聞いて背筋が寒くなった。でも、後ろから「青二才がトラギアス様に何を失敬なことを言っているのだ!」という怒声が聞こえてきたので、背後から殴られかねない恐怖を感じて引き下がった。

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