バチカンから見た世界(86) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

教皇の訪日を前に(2)――日本での布教を夢見た教皇

ローマ教皇フランシスコが2013年3月13日に選出されて数日後、バチカン記者室詰めの国際記者たちを代表し、新教皇に直接、あいさつする機会を与えられた。当時のバチカン報道官のフェデリコ・ロンバルディ神父(イエズス会)から「バチカン記者室の最年長記者の一人です」と紹介され、新教皇の柔らかい手を握り締めながら、「イエズス会が運営する東京の上智大学の出身です」と自己紹介した。そして、「教皇ヨハネ・パウロ二世と同じように、日本においで頂けますか?」と伺うと、「私は(1987年に)日本に行ったことがあります」との答えが返ってきた。「日本で、お待ちしております」と申し上げた。

ほんの一瞬の出会いであったが、今から思えば、同じイエズス会出身で、若い頃(1970年代)には「日本での布教を夢見ていた」新教皇に、バチカン記者室で活動する上智大学出身の日本人一信徒を会わせるようにと、イエズス会のロンバルディ神父が配慮してくださったのではないか、と解釈している。私は、1978年に教皇ヨハネ・パウロ二世が選出されたコンクラーベ(教皇選挙)後、新教皇と報道関係者とのあいさつの機会においても、「いつの日か、日本においで頂けますか?」と直接伺ったことがある。当時、教皇の訪日など夢想だにしないことであり、新教皇をはじめお付きの人々が大声で笑った。「赤い国」(共産主義政権下のポーランド)から来た新教皇が後に、世界を駆け巡って福音を説き、1981年に来日することなど、誰も予想していなかった。

教皇フランシスコを選出したコンクラーベの取材には、世界から約6000人の報道関係者がバチカン記者室に登録し、報道合戦を展開した。その国際報道陣との謁見(えっけん)が終わって間もなく、バチカンで青少年の信徒たちと布教について対話していた教皇が、「私は若い頃、日本で布教したいと思っていたが、肺に疾患があり、イエズス会総長からの許可が下りず、断念したことがある」と、その胸中を明かした。「日本人のキリスト教殉教者と広島、長崎の被爆体験についての史実を読む時、日本国民に対する感嘆を禁じ得ない」(長崎のテレビ局「KTN」によるインタビュー)との評価を口にするアルゼンチン人のイエズス会士は、夢見ていた日本での布教を断念せざるを得なかったのだ。

キリシタン禁教令の下で多くの殉教者を出し、二世紀を超える長期間にわたり、聖職者が一人もいない状況の中で信仰を生き、伝授していった隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の存在と、「もっと人間的な意味での殉教」であった広島と長崎における被爆体験から、現教皇は「地獄のような試練の中から再生する能力を持った日本国民」(同)とのイメージを持ち続けてきた。イエズス会は、1534年の創設以来、日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエル(1506-1552)を筆頭とし、日本やアジアでの布教には同会の中で最も優秀な人材を投入してきた歴史を有する。そして、現教皇が持っていた「日本での布教という夢と貧者の選択」という二つの確信を結び付けた、もう一人のイエズス会士がいる。スペイン人のペドロ・アルペ神父(1907-1991)だ。