【特別インタビュー 第41回庭野平和賞受賞者 モハメド・アブニマー博士】諸宗教の教えを生かし和解・共生の道へ 戦争を止めるために、共に祈りと行動を

普門メディアセンターで行われたインタビュー。アブニマー博士(右)は、世界の分断を止めるために、優先すべきは何よりも「停戦」と話した 

今年、「第41回庭野平和賞」を受賞したモハメド・アブニマー博士(62)へのインタビューが先ごろ、普門メディアセンター(東京・杉並区)で行われた。イスラエル出身のパレスチナ人で、ムスリム(イスラーム教徒)の同博士は、米国で「平和と正義のためのサラーム研究所」を創立し、イスラームの教えに基づいて世界各地で赦(ゆる)しと和解の取り組みや、宗教間対話による平和構築に尽力してきた。『世界の分断を止め、和解・共生の道を開くには』をテーマにしたインタビューの内容を紹介する。インタビュアーは、庭野平和財団の庭野浩士理事長(選名・統弘)が務めた。(文中敬称略)

暴力の正当化に抗って

庭野 アブニマー博士は、イスラエル・ガリラヤで生を受けられました。パレスチナ人(アラブ人)の敬虔(けいけん)なムスリムの家庭で育ったと伺っています。これまで世界各地で紛争の解決や平和構築に取り組んでこられたことと、成育環境とは関係がございますか?

アブニマー あると思います。私の祖父は1914年にマッカ(メッカ=サウジアラビアにあるイスラームの聖地)の大巡礼(ハッジ)を行いました。私が育った山間部では珍しいことで、私たち家族は「ハッジファミリー(巡礼者の家族)」と呼ばれ、祖父は宗教的指導者であるイマームになっていきます。やがて30年かけて、モスク(イスラームの礼拝所)を建設した祖父は、地域の人々のもめ事や、コミュニティー間の紛争の相談を受けるようになりました。

私は祖父から、仲裁によって問題を解決する大切さや、平和を保つ尊さを聞くとともに、後を継いだおじや父が祖父同様に紛争解決にあたる姿を見て育ちました。当時、わが家では紛争解決の方法についての会話は当たり前でしたし、一人ひとりにその義務があることを私は学んだのです。問題が生じても怒りで応じることなく、忍耐強くあるように期待されていたのだと思います。

私は大学に入学後、「ネーブ・シャローム/ワハット・アッサラーム」(第10回庭野平和賞受賞団体)の活動に参加します。そこで、共生に向けたアラブ人とユダヤ人の対話に取り組みました。

庭野 博士はネーブ・シャローム/ワハット・アッサラームでの活動を経て、渡米されます。どんな考えがあったのですか?

アブニマー 渡米したのは1989年です。それまで私は9年間、アラブ人とユダヤ人の対話の集いでファシリテーター(進行役、推進役)を務めていました。一つの集いは3日間で行われ、30人ほどが参加します。それを毎月2、3回行うのです。参加者は、相手に不信感や先入観、恐れを少なからず持っています。

対話の集いでは、日頃対立によって受けた悲しみ、苦痛、また相手に対する恐れについて、それぞれが話します。私たちはその話に耳を傾け、怒りの感情さえも受けとめて、双方の間に少しずつ理解や信頼が生まれ、友好関係が築かれるようにしていきます。とても忍耐を要する活動です。

一方、こうした和解の活動への支援は乏しく、当時のイスラエル政府はパレスチナの存在を否定する姿勢を鮮明にしていましたから、対立が激化し、対話プログラムを続けることが困難になっていきました。限界を感じた私には休息が必要でした。そして、人々の状況を改善し、解放と正義を実現する方法を新たに学ぶために渡米したのです。

実は、宗教に強く意識が向き、宗教間対話の重要性に気づかされたのは、アメリカでの生活が大きく影響しています。それまでの生活では宗教についてあまり意識することはなかったのですが、アメリカで私は常に「ムスリム」とみなされます。それでおのずと、自分の宗教的なアイデンティティーやルーツを見つめ直すことになりました。しかも、アメリカではイスラームは暴力的な教えであるとの誤解が流布し、恐れられていました。そうした先入観や偏見を変え、イスラームの真の姿を理解してもらわなければならない――そう考えて、2003年に『Nonviolence and Peace Building in Islam-Theory and Practice』(仮邦題:イスラームにおける非暴力と平和構築――理論と実践)を出版したのです。

世界に目を向けると、一部の政治家や宗教者による宗教の悪用が常態化し、戦争や他者への暴力が正当化されている現実があります。それに立ち向かうには宗教間対話による平和と正義の実現が不可欠です。

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