【ルポ】慶州ナザレ園を訪ねて 国境や宗教の垣根を超えた愛の力――本会一食平和基金の支援現場から

相手を敬い、愛する心

同園の運営母体である社会福祉法人ナザレ園に関連するグループには、高齢者向けの施設だけでなく、孤児院や母子生活支援施設などがある。職員の中には、幼い頃に自身も世話になったという人も多い。

同園に勤務するAさん(62)もその一人だ。初めは、ほかの職場に勤めながら、ボランティアとして来園。次第に、宋園長の優しい人柄に胸を打たれ、同園で働くようになった。勤続30年のベテランだ。周りから、“イモヤ”(母の姉妹を指す呼び名)の愛称で呼ばれ、入園者たちからは娘のようにかわいがられてきた。

2年前から、社会福祉法人ナザレ園の理事長を兼任する宋園長。心に傷を負った日系婦人に最後まで寄り添う

常に、世話をされる立場になって物事を考えるよう心がけているAさん。日本人の介護に抵抗はなかったのかと尋ねると、首を横に振った。「常に相手を敬い、私たちは同じ人間だという気持ちで接してきました。おばあさんたちが娘のように愛してくれるのが、何よりの喜びです」と満面の笑みを浮かべた。

Aさんのほか、3人の韓国人スタッフが宋園長と共に運営を支える。「一日でも豊かに安らかに生活してもらいたい」との金氏の願いのもと、同園では厳しいルールや管理などは設けていない。過去に、礼拝に参加しない人もいたが、責める人はいなかった。宋園長は言う。「『昨日まで、ほかの宗教を信仰していた人もいます。決して礼拝を強制してはいけません。皆さんを愛しなさい』と金先生に教わりました」。ここで働く人々に共通するのは、キリスト教の教えに沿った愛の精神だ。

日系婦人が抱く思い

今日まで、同園は147人の日本人女性の帰国を援助し、98人を看取(みと)ってきた。この地で息を引き取った人の中には、日本に受け入れ先がなく帰国を断念し、〈魂だけは祖国の日本に帰りたい〉と願う人も多かった。2000年、金氏はその思いに寄り添うため、港町・甘浦の山に納骨堂を建立した。

宋園長の案内で、園から30分ほど離れた納骨堂へ向かった。近くで車を降り、雨でぬれた草に注意して坂を上った先に、石造りの納骨堂が現れた。日本の方角に向けて建てられた石碑、周囲に植えられた日本の国花である桜の木――さまざまな配慮がうかがえた。宋園長は、花束を手向けて黙とうし、ゆっくりと口を開いた。「おばあさんたちと一緒に過ごせるように、いずれ私もここに入れてもらいます。ただ、その後の納骨堂の管理をどうすれば良いのか……」。目には涙が浮かんでいた。

金氏が最期に造り上げた納骨堂から日本の方角を向き、歴代の入園者に思いをはせる宋園長と一食事務局スタッフたち

視察の2日前、入園していた98歳の佐藤照子さんが息を引き取った。日系婦人保護施設としての役目を終える日は、そう遠くない。同園が把握している限り、終戦直後に2000人以上いたといわれる日系婦人は3人になった。在宅援助者が1人、入園者の1人は入退院を繰り返しているため、園で暮らすのは大吉マツさん(99)のみだ。

4人掛けのテーブルが六つ並んだ食堂。以前は、個人の趣味に熱中する人や花札をする人たちで活気づいていたが、今ではテレビの音が響くのみ。車いすに乗った大吉さんに声をかけると、雑誌を読む手を止め、事務局スタッフの方を向いた。「鹿児島県大島郡……。大吉マツ!」と元気に自己紹介した後、手拍子に合わせ、『鹿児島おはら節』を披露した。終(つい)の住処(すみか)となる異国の地で、日本人としていのちを輝かせて生きる様子が見られた。事務局スタッフたちは、大吉さんに交流できた喜びを伝え、手を包み込む。大吉さんはしっかりと目を見て、「ありがとうございます」と握り返した。

別れの時、部屋から事務局一行が見えなくなるまで手を振り続けてくれた大吉さん。“私の家にまた遊びにおいで”と言わんばかりの笑顔に、改めて、この場所が安住の地になっていることが感じとれた。「おばあさんたちが安心して幸せに生活できたのは、一食平和基金のおかげです。異なる宗教に力を貸すのは簡単なことではありません。皆さんに感謝をし、最後の一人を見送るまで、ナザレ園を守り続けます」。宋園長は力強く語った。

一人ひとりの「一食を捧げる運動」の積み重ねが、時を越え、海を越え、人々の支えになる。今後も、同園を通して救いを必要とする日系婦人が生き続ける限り、支援は継続されていく。