対談・フィリピン残留日本人二世を支えて 石川義久在ダバオ日本国総領事、猪俣典弘PNLSC代表理事
戦前、フィリピンには多くの日本人が移住し、現地の人々と共に生きていた。しかし太平洋戦争で激戦地となり、戦後に多くの日系二世が現地に取り残された。彼らは、反日感情による差別や迫害を受けた上、日本人としても認められず今も無国籍状態のまま生きている。平均年齢が83歳になるフィリピン残留日本人二世の日本国籍回復をサポートする石川義久在ダバオ日本国総領事と、NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の猪俣典弘代表理事に、対談を通して取り組みに懸ける思いや今後の支援などを聞いた。(本文敬称略)
戦争という国策で苦しめられた人々
猪俣 石川さんは佼成学園高校の卒業生だと伺いました。
石川 はい。1982年の卒業で、剣道部(真木恒志郎先生)と書道部(田岡正堂先生)に在籍していました。田岡先生に同行し、東海や近畿地方の教会で開催される書道教室のお手伝いをしたこともあります。会員の皆さんに、温かくして頂いたことも、いい思い出です。
早稲田大学政治経済学部を卒業後、外務省に入り、88年から94年までフィリピンの日本大使館に勤務しました。その時、毎日新聞の記者だった大野俊さん(現・清泉女子大学教授)の『ハポン』(1991年、第三書館)を読み、父親と離別、死別するなどして苦難の戦中、戦後を生きる残留二世の存在を知り衝撃を受けたのです。
居ても立ってもいられなくなり、残留二世のカルロス寺岡さん(元在バギオ名誉総領事)をバギオに訪ねました。二人の兄を日本軍とフィリピン・ゲリラにそれぞれ殺され、家族で密林を逃げ回る中で米軍の爆撃に遭い、母親や幼い弟、妹を失ったことなどを聞きました。また、日本人としての誇りを持って生きる姿に感動し、背筋が伸びる思いでした。この出会いが、残留二世の問題に関わるきっかけです。
猪俣 私は、大学在学中に上総(かずさ)掘り(人力の井戸掘り工法)によるプロジェクトでフィリピンに来た時、初めて残留二世と出会いました。その後、2005年にPNLSCのスタッフとなり、最初の仕事が残留二世の話を聞いて就籍に向けた陳述書を作るものでした。
彼らに共通するのは、戦争で父親と離別していることです。希望を聞くと、「お父さんを捜してほしい」「お父さんの家族に会いたい」と口をそろえます。話を聞き続けるうちに、彼らが父親を恋い慕うのは、自らの命のつながりを確認するためだと分かりました。
もう一つは、日本国籍の取得です。彼らは、戦後の反日感情による差別や迫害を逃れるため、「日本人であること」を隠して生きてきました。十分な教育を受けられず貧困に陥り、家族に苦労をかけたという思いが強くあります。子や孫が日本で働けることは、自身が残せる大きな遺産であり、親心です。この思いは、自身のアイデンティティー回復と同様に重要なことだと感じます。
石川 1992年ごろ、カルロス寺岡さんの紹介で残留二世の調査に同行してくれたデビッド長岡さんは、ルソン島北部のキアンガンを訪れた時、山を見ながら涙を流されました。理由を聞くと、終戦間近に眼前の山中でご両親を亡くし、自分だけが生き残ったとのこと。それから半世紀近く、キアンガンに来ることを避けていたと話してくれました。
こうした悲しい体験を持つ残留二世は多いです。日本軍が全ての在留邦人を軍属として協力させ、敗走時に山中へと連れていったダバオのタモガンでは約4000人が亡くなり、今なお収骨さえされずにいます。戦前、ダバオには日本から多くの移民が来て、フィリピン社会に受け入れられてマニラ麻の栽培などで生計を立てていたわけですから、戦争が在留邦人の豊かで穏やかな暮らしを全て破壊したといえます。
その影響をじかに受けた残留二世ですが、中国残留孤児のように、日本政府からの支援は受けられませんでした。かつて厚生労働省は、支援できない三つの理由を挙げていました。「中国残留孤児は国策移民の子だが、フィリピンの残留日本人は任意で移住した人たちの子ども」「フィリピンとは1956年に国交正常化したため、その後に日本人の父親を捜せたはず」「母親がフィリピン人」というものです。
しかし、彼らが取り残されたのは、戦争という国策によってです。その上、日本人であることを隠してひっそりと暮らし、貧困に苦しむ彼らに来日の資金を用意できたでしょうか。また、日本は84年の国籍法改正まで父系血統主義を採用していました。こうした点からも、日本にルーツを持つ残留二世の擁護は日本政府の責務であると信じます。そんなことすらできなくて、日本政府と言えるでしょうか。
私は一昨年から、PNLSCメンバーらと共に残留二世の家庭を訪問して話を聴き、さまざまな報告書を作成して就籍許可を審判する家庭裁判所に提出しています。これまで、ミンダナオ島に住む40人ほどとお会いしました。今後もミンダナオ中の残留二世のもとを訪れたいと考えています。