「ウィズコロナ時代」へ 識者の提言(2)

コロナが浮き彫りにしたもの、これまでと今後の文明 哲学者・内山節

新型コロナウイルスの感染が拡大し始めたとき、私が最初に思い出したのは、江戸時代後期の曹洞宗僧侶、良寛の次のような言葉だった。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

すべてをあきらめろと言っているのではない。災難にあわないように工夫もするし、健康でいようともする。しかし、それでもなお災難や死が訪れたときは、それを受け入れるところからしか人間の営みははじまらないということである。受け入れてこそ次の営みがある。

新型コロナウイルスに対しても、私たちはそれを受け入れるしかないだろう。ウイルスとの戦いといった言葉は、全く的外れなのである。課題は、受け入れたうえで、このウイルスと共存できる社会をどうつくるのかということにある。

やや乱暴に述べてしまえば、現在巷(ちまた)で議論されている感染防止か経済かという議論は、是(これ)もまた的外れだと言わなければいけない。課題は感染防止でも経済でもなく、私たちの共に生きる社会の維持の方にある。ただし爆発的な感染拡大が起これば、社会維持が困難になるから、それは防がれなければいけない。さらに社会維持のためには人びとの活動が必要で、その活動のなかには経済的活動もふくまれる。ただし間違えてはいけないのは、経済は社会維持の道具であり、目的は私たちの社会を維持することにあるということである。

私たちの社会は、さまざまな関係の集積によって成立している。江戸時代までの伝統的な考え方では、自然と人間の関係、生きている人間同士の関係、さらに生者と死者の関係が積み重なって、この社会は成立していると捉えられていた。明治以降になると欧米思想が入ってきて、社会は生きている人間だけのものと捉えられるようになっていくが、伝統的には社会は自然と生者と死者を構成メンバーとして成立しているものであった。

そしてこの視点に立つのなら、ウィズコロナの社会での自然と生者の関係、生者と生者の関係、生者と死者の関係はどうあったらよいのかが検討されなければならないだろう。コロナ下における生者同士の結び方を工夫するだけではなく、自然とどう結んでいったらよいのか、死者とどう結ぶのかをふくめて、私たちはコロナの時代の関係のあり方をみつけださなければならない。この全体的な関係のあり方が発見されることによってこそ、私たちの社会は維持されるだろう。

現代社会は、生者の論理が社会を支配している。自然は遠ざけられ、死は不安や恐怖でしかなくなった。生者の欲望が自由に振る舞い、それが世界を荒廃させつづけている。そういう状況下で新型コロナウイルスが蔓延(まんえん)したから、社会は右往左往するばかりだった。

私たちは社会とは何かを根本から問い直さなければいけないのである。社会をつくりだしている関係を受け入れ、たえず新しい関係を創造していく。いま求められているのは、そういう力を私たちが手にしていくことであろう。

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