難民問題とどう向き合うか(前編) 国連UNHCR協会・滝澤理事長×本会一食平和基金運営委員会・根本委員長

世界では、40以上の国と地域で争いが続き、暴力や迫害の脅威に、23億人もの人々がさらされている。彼らは自分や家族のいのちを守るため、やむなく自国を離れて難民となる。逃げ出すこともできずに国内避難民となった人々は、今も暴力の恐怖におびえて暮らす。急増し続ける難民の問題を、私たちはどう受けとめ、行動すればよいのか――。長年、難民支援に取り組む国連UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)協会の滝澤三郎理事長と、同協会とパートナーシップを結ぶ立正佼成会一食(いちじき)平和基金運営委員会の根本昌廣委員長が、さまざまな視点から難民問題について語り合った。(文中敬称略)

命懸けの脱出

滝澤 私が難民問題と関わるようになったのは、1976年に法務省の入国管理局に入局したことから始まります。当時、インドシナ三国(ベトナム、カンボジア、ラオス)から300万人を超す難民が流出し、日本近海に漂流していました。しかし、日本はまだ「難民条約」に加盟しておらず、対応に政府が二の足を踏む中、立正佼成会をはじめとする市民団体が救済に立ち上がったことを覚えています。

その後、83年に国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に入り、本格的に難民問題に関わるようになったのですが、そこで最初にコンタクトを取ったのが立正佼成会でした。以来、30年以上にわたりご縁を頂いています。

現在は国連UNHCR協会で理事長を務めていますが、世界は40年前と変わらず、大規模な難民問題が続いています。最近ではシリア内戦で祖国を追われた難民、国内避難民が480万人を超え、増加の一途をたどっています。

ヨルダン東部にあるザータリ難民キャンプ。シリア内戦から逃れてきた約8万人が避難生活を送る

根本 そうでしたか。私は佼成会の「学林」という教育機関を卒業し、25歳で教団本部の職員として働き始めましたが、最初の仕事がインドシナ難民の受け入れでした。佼成会は77年に千葉県の小湊に一時収容施設を設け、難民を受け入れました。私は主に、港に着いた難民の送迎や身の回りの世話などに当たりました。以来、佼成会は95年までの18年間にわたり、祖国を離れた476人を受け入れ、移住や日本定住のサポートを続けました。

私はその後、86年に日本がUNHCRの議長国に選ばれたこともあり、「JPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)」として3年間、スイスのジュネーブにあるUNHCR本部に勤めました。

滝澤 同時期にUNRWAとUNHCRという立場で難民に携わっていた……。不思議な縁ですね。その頃といえば、ベルリンの壁が崩壊。東西冷戦の終結で安定するかと思われた東欧諸国で内戦が勃発しました。

私はUNRWAのウィーン事務所に勤めていましたが、東欧、特にユーゴスラビアからの難民が大量に流入したのを覚えています。印象的だったのが、宗教者と市民が共に難民を支援していたことです。欧州では長い歴史の中で、何百年も前から迫害を受けて国外に逃れる難民がいて、彼らを受け入れてきた伝統があるんですね。

根本 なるほど。だからシリア難民の受け入れも率先して取り組めるのかもしれませんね。さまざまな民族対立が起きた90年代でも、世界の難民数は2000万人でした。それが今、紛争や迫害によって家を追われる人が6500万人にまで増加しているそうですが。

国連UNHCR協会理事長 滝澤三郎氏

滝澤 はい。外国に逃れて難民となった人々は、パレスチナ難民含め2100万人ですが、さらに深刻なのは難民にすらなれない国内避難民の問題です。彼らは自国の政府から迫害を受けていながらも、さまざまな要因から他国に逃げることができない。この国内避難民が4000万人以上いるといわれています。

根本 先日の国連発表では、昨年1年間で5000人ものシリア難民が地中海で行方不明になったと。非常にショッキングな数字でした。

滝澤 「地中海の悲劇」と言われていますが、現代的な現象だと思います。スマートフォンの普及により、自分が今どこにいるのかを確認しながら移動できる。また、銀行にもアクセスできて送金も可能なので、多額の現金を所持しなくていい。加えて、密航業者が大きなネットワークをつくっていて、難民の移動能力は格段に上がりました。

日本人からすると、なぜそんな危険を冒してまで海を渡るのか理解し難いと思います。しかし、彼らには他に選択肢がない。政府やテロ組織の迫害、拷問、さらに内戦の激化で家も学校も病院まで破壊され、一刻の猶予もないのです。かといって、隣国に逃げても、すでに大勢の同胞がいて支援の手が届かない。となると、どのみち危険なら家族のために、命を懸けても、と密航船に乗ってしまうわけです。

広く世界に発信

根本 その話で思い出しました。昨年5月にトルコのイスタンブールで開かれた「世界人道サミット」に出席した際、シリア問題を討論する部会に参加したのですが、パネルディスカッションの中で一人のシリア人男性が、「一つだけお願いがある」とフロアに向けて話し始めました。「食糧支援もありがたい。でも、一番必要なのは戦争を止めることなんだ」。そしてこう訴えました。

「残念ながら、われわれには、国連に行く力も、声を上げる力もない。どうか皆さん、戦争を止める手助けをしてほしい」

衝撃でした。本気で戦争を止めなければと思いました。そこで今、「戦争(S)を止める(T)研究会(K)=STK」という研究会を開いています。STK主催の学習会では滝澤理事長にも講師を務めて頂きました。

本会(立正佼成会)の開祖、庭野日敬は、世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)を創設する時、そしてインドシナ難民を受け入れた時も、周囲から批判を受けながら、「真摯(しんし)な行動の中にこそ平和は創られる」と信じ、宗教者やさまざまな分野の人と手を携え、地道な努力を続けました。だから私たちも、不可能と思われることかもしれませんが、それでも、UNHCRのような国連機関やNGO、政府の協力のもと、何とかして大きなうねりを生み出していきたいのです。

滝澤 おっしゃる通りです。戦争を止めないことには難民は増え続けます。シリアはアサド大統領による独裁政権への抵抗が2011年に始まり、「アラブの春」と言われていますが、国内の緊張状態が一気に解け、内戦にまで発展しました。加えて、ロシアやイラン、サウジアラビアなど大国の利権が絡まり、終息の見通しがつかない状態です。紛争が根本原因であることは明白ですが、しかし、簡単に解決できる問題ではない。われわれは目の前で困っている難民に手を差し伸べ続けることしかできないのが正直なところです。

本会一食平和基金運営委員会委員長 根本昌廣氏

根本 そうですよね。シリア人男性の叫びもそうですが、生の声を直接聞いたわれわれが広く世界に発信していく。皆が“自分事”として受けとめられるまで、諦めずに伝え続ける。それが大切なのでしょうね。そういう意味では、UNHCRの役割は大きいし、私たち宗教者も協働していく大切さを切実に感じています。

滝澤 83年にガザ地区(パレスチナ自治区)の難民キャンプに行った時のことです。学校で勉強する女子生徒に、「この中で親を亡くした人はいますか」と聞いたら、数人が手を挙げました。その時、何げなく「どう思うか」と聞いたのです。すると、中学2年生くらいの子が立ち上がり、私をしっかりと見つめてこう言いました。「その質問、何回も聞きました。でも、私たちの生活は何も変わりません」。見せ物ではないという憤りと無力感が伝わり、言葉を失いました。私たちはつい難民の数に圧倒されて、ひとくくりに見てしまいがちですが、彼らも一人ひとり個別の人間なのだと改めて気づかされた出会いでした。

根本 私もこれまで一食平和基金が支援するさまざまな団体、施設を訪問しましたが、そのたびに歯がゆくなります。けれども、いつも自分に言い聞かせます。「私たちは微力だけれど、無力ではない」と。

滝澤 その気持ち、とても大切だと思います。UNHCRの職員がよく言うのですが、「私は難民を助けようと思っていたが、逆に難民に学ばせてもらっている」と。それは、私も実感しています。

パレスチナ難民は、69年前に第一次中東戦争が始まって以来、ずっと虐(しいた)げられています。でも、これまで、彼らは一貫して「祖国に帰る」という思いを持ち、そのための活動を続けています。パレスチナ難民に限らず、難民といわれる人たちは家や肉親、仕事を失い、マイナスから出発しながら、何とか自分の人生を立て直そうという強い意志を持っています。難民支援とは、単にかわいそうだからという意識で庇護(ひご)するのではなく、そうした彼らの「堅忍不抜(けんにんふばつ)」のへこたれない姿に、私たちも学ぶべきではないかと思うのです。

UNHCR駐日事務所では、10年前から「難民高等教育プログラム」を行っています。日本に来た難民を対象に国内の大学が奨学金を出し、高等教育を受けてもらうプログラムです。応募者の中にミャンマーから来た青年がいました。彼はぜひ、大学の農学部に行きたいと言うのです。理由を問うと、自分の生まれ育った地域は焼畑農業で生計を立てているためとても貧しい、日本の高い農業技術を学んで、国づくりに携わりたいと、そう訴えました。

迫害や差別を受けて逃げてきたにもかかわらず、家族や国の将来を思って頑張るんですね。そういう高い志を持った青年が同じ大学で学んでいるだけで、日本の学生たちも刺激を受ける。だから私は、もっと難民を受け入れるべきだと思うのです。

根本 全ての難民の願いは本国に帰ることだけれど、それが困難な人には、せめて生命が脅かされない日が来るまで、私たちは難民を特別視せず、同じ地球に住む家族として受け入れていく。そういう広い視野を持つことが大切なのですね。

(後編に続く)

プロフィル

たきざわ・さぶろう 東京都立大学大学院博士課程を経て法務省入省後、1981年国連ジュネーブ本部採用。UNRWAのアンマンやベイルートなど各事務所に勤務。91年から国連工業開発機関(UNIDO)ウィーン本部財務部長を経て、2002年から06年までUNHCRジュネーブ本部財務局長に。07年から08年8月までUNHCR駐日代表を務めた後、国連大学客員教授を経て現職。アメリカ公認会計士。

ねもと・まさひろ 1977年立正佼成会学林入林。80年以降、国際自由宗教連盟(IARF)フランクフルト事務局員、UNHCRジュネーブ本部職員を経て、本会外務部次長、外務部部長として宗教対話や政治、人権問題に携わる。2015年、宗教協力特任主席、一食平和基金運営委員会委員長を兼務。16年からはWCRP/RfP日本委員会・難民問題タスクフォースの責任者として難民支援に関わる。

日本の難民支援

2015年に日本で難民認定申請を行った外国人(申請者)は7586人で、前年に比べて2586人(約52%)増加し、過去最多となった(法務省調べ)。申請者の出身国籍は、ネパール1768人、インドネシア969人、トルコ926人、ミャンマー808人などアジアを中心に69カ国にわたる。日本は1981年に「難民条約」に加盟し、難民の受け入れを始めた。他国に比べて難民申請から認定までの期間が約3年と長く、年間の認定者数が極端に少ないのが現状といえる。一方、2010年からは、一次避難国では保護を受けられない難民を他国(第三国)が受け入れる「第三国定住」制度を導入している。