被爆体験を後世に ヒロシマの実相を伝える、三人の平和の祈り

さまざまな所で証言活動をしていた岡さんとの出会いは原爆投下から60年が経った2005年。HRCPに所属する被爆者の吉田章枝さんの紹介だった。波多野さん、梅津さんと岡さんとの関係は深いものではなく、岡さんが証言する学習会の前後にあいさつを交わす程度だった。スケジュールの調整や確認、とりとめのない世間話はしても、プライベートについて話すことはほとんどなかった。

そんな関係が10年以上も続いた16年9月、波多野さんが次回の平和学習について連絡すると、岡さんからふと、「他の被爆者には伝承者がいるけど、私にはいないの。波多野さん、私の被爆体験を引き継いでもらえませんか」と頼まれた。波多野さんは突然のことに戸惑い、即答できなかった。

波多野さんは30年以上、県内外から平和記念公園を訪れる学生、市民に、原爆やその被害について説明するボランティアを務めてきた。HRCPの平和学習の責任者でもある。広島に投下された原爆に関して自ら熱心に調べ、30人以上もの被爆者の体験を聞くなどして得た知識の豊富さは、HRCPでも群を抜く。しかし、波多野さんは人前に出て感情豊かに話す自信がなく、まして岡さんの伝承を担う責任の重さを考えると、二つ返事とはいかなかったのだ。それでも、平和を願って自らの体験を語ってきた岡さんのたっての頼みであることを考えると、波多野さんの胸に「させて頂きたい」という気持ちが湧かないはずはなく、朗読が好きな梅津さんが協力してくれることになった。

HRCPが毎年発刊している「おりづる」。その年の活動報告や証言者の体験、平和学習に参加した学生たちの感想が掲載されている

波多野さんは当時の気持ちをこう話す。「岡さんから依頼された時は、すぐには答えることができませんでした。あまりにもびっくりしてしまって。でも、梅津さんがいてくれたから、後日、『ぜひ、させて頂きたいと思います』と連絡できました」。梅津さんは「朗読が好きだったので、この時は軽い気持ちで受けていました。後で大変なことだと認識するのですが……」と振り返る。二人で伝承することを岡さんも承諾してくれ、波多野さんが被爆前後の広島や岡さんの様子を説明して歴史的背景に触れた上で、梅津さんが岡さんの体験を情感を込めて朗読、そして最後に再び波多野さんが岡さんの平和への願いを語るという伝承活動のスタイルが決まった。

原爆投下の第一報を発し、そのことでテレビや新聞などで何度も取り上げられてきた岡さんには多くの知人がいる。その中で、波多野さんに伝承の依頼をしたのはなぜだろうか。HRCPの上田知子理事長は、「波多野さんはとても真面目で、努力家です。熱く平和を願う方だからこそ、岡さんは波多野さんにお願いしたのだと思います」と語る。

映像を使っての伝承活動

二人が証言する機会は、自分たちが思っていたよりも早く訪れた。昨年2月、波多野さんが伝承の原稿の件で電話をした時に体調の変化を告げられ、「病状によっては、すでに証言を引き受けている学校に、代わりに話をしてもらえますか?」と岡さんから依頼があった。波多野さんと梅津さんは、治療が終わるまでのつなぎ役のつもりで依頼を引き受けたのだが、岡さんは翌月に入院し、2カ月間の治療の後、悪性リンパ腫のため帰らぬ人となった。二人は悲しみに見舞われ、伝承者の責任の重さを改めて感じた。

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