第34回庭野平和賞贈呈式 ムニブ・A・ユナン師 受賞記念講演

ローマ教皇フランシスコとユナン師(写真左)。昨年10月31日、スウェーデンのルンド大聖堂で、カトリック教会とLWFとの合同礼拝が行われた(©Mikael Ringleader/IKON)

今日、信仰の伝統の中にいる指導者は、自分たちの真っただ中にいる過激主義者と対峙(たいじ)しなくてはなりません。過激主義とは何となく信心深さの目安になるという考えを拒絶し、確固たる穏健を強く信じる人となって対峙するのです。穏健派はどっちつかずではありません。穏健派は独自性を持たない人ではありません。もし私たちが過激主義の神学に異議を申し立てて、過激主義の政治家が彼らを支持するなら、私たちのそれぞれの伝統の中にある中心となるものを取り戻すようにしなくてはなりません。ルーテル派のキリスト教徒としての私の願いは、全ての物事が和解するように、との神の願いに定められています。それは、われわれの隣人とわれわれの地球の生態系と環境、両方のために今ここにある願いです。この願いは、私たちを隣人から隔てるものではなく、彼らの生活状態について、より大きな関心を私たちが寄せるようにとするものです。この考えに立って私たちは、公正さ、平和、平等、共生、そして他者を受け入れるという共通の価値を支持し、排除するのではなく、受け入れようとするのです。今年、私たちルーテル派は宗教改革500年を祝していますが、それは神の恩寵(おんちょう)による解放を中心的メッセージにした運動で、今日の宗教を過激主義と堕落から解放しなくてはならないとの思いによるものです。

多くの世界的な問題や紛争の根本原因に宗教の違いがある、というのはよくある間違った認識です。パレスチナ・イスラエル紛争を含む多くの紛争には、宗教的な要素が存在していますが、果たして宗教がその特定の問題の原因なのかと人はしばしば問うでしょう。さらに、宗教的な要素に焦点を当てることが、往々にして、特定の問題にある真の原因を覆い隠してしまうのです。こうしたよくある認識は、世界的な、そして身近な地域の政治における宗教の役割をさらに縮小させ、宗教を実際よりもはるかに単純なもののようにしてしまうのです。

複雑な状況下にある宗教指導者は、自分たちが尽くしたいと思っているコミュニティーの現在と将来について、宗教が助けもするし傷つけもすることを知っています。宗教指導者は政治家のミニチュアになってはいけないのと同時に、自分たちの社会、国家、そして世界の公正な平和を達成しようと努力する役割があることに気づかなくてはなりません。本当のことを言えば、宗教指導者は、それぞれの信仰の基本的要素を通して、社会の問題に取り組まなくてはならないのです。神を愛し、隣人を愛するためには、真の宗教の基礎を深く掘り下げなくてはなりません。