今年の寒修行が終了 初日に導師をつとめた光祥次代会長があいさつ
初日に導師をつとめた光祥次代会長のあいさつ(文責在編集部)
私は普段、式典では着物を着用させて頂いていますが、寒修行では黒の礼服、そして今年は初めてパンツスタイルでお役をさせて頂きました。
大聖堂の聖壇では、式典で女性が初めて導師を担うようになった頃、フロックコートをスカートにアレンジした儀礼服を着用していたようです。私がお役を頂いた時には、儀式の方と相談し、着物にしました。母の着物がありましたし、出産で体型が変化する時期でもあり、理に適(かな)っていたからです。その後、当時の聖壇幹事長さんの発案で女性副導師が誕生し、黒のロングスカートを着用。今年からは女性もパンツスタイルが可となりました。
そうなると、これまで伝統やルールを一貫して大切に守ってきただけに、男性の方が変化を受け入れ難いかもしれません。人は自分の自由にしたいという思いを持つもので、同時に自分が守り、我慢してきたことを人が易々(やすやす)と手放すのは許せないものです。
そのどちらにもとらわれず、いつも可能性に開かれた自在な自分を育むことが仏道修行の基本だと思います。時は流れ、関係は変わり、自分も人も変化します。世の中は自分の望んだ通りにはならないし、理に適ったことばかりではない。だからこそ、常に今という新しい関係に向き合い、思い通りにならないことが起きてもとらわれず、いつも可能性に開かれた自分でいるために、無意識のうちにつかんでいるものを手放す準備を整えることが大事です。
衣服を整え、決められた儀礼儀式を行うことも、こうしたいという自分を手放すことの一つ。“型に合わせる”という行為を通して、自らを手放し、整え、超えるチャンスだと思います。寒修行はそのためにもあると言えるでしょう。
自分を手放し変化させるというのは、日常や家族との関係にも新たな可能性を広げてくれます。
娘が1歳半の頃、「お手洗いに行きたくなったら早めに言うのよ」と言うのですが、子どもはそう都合よくは言えません。言い出した時にはすでに緊急事態です。「さっきも聞いたのに」と娘を叱りながら、大慌てでお手洗いを探し回ります。ところがある日、ふと思いました。別に叱らなくても、慌てなくてもいいんじゃないか。だって私が慌てるほど、娘も焦る。私が叱るから娘は言い出せないんじゃないか、と。
それからは、私自身の心を整えるためにも、落ち着いて声をかけるよう努力しました。すると、失敗も減りましたし、失敗しても私自身が穏やかな気持ちでいられて、娘を追い詰めるような言葉をかけないようになれました。
焦っていても、落ち着いていても、やることに変わりはない。なのに、自分の心の置き所によって、全く違う経験、味わいが残り、その後の時間も違ってきます。些細(ささい)なことですが、そういう時間の積み重ねが私や娘の人生となり、大切な家族との関係になる。そう思うと、小さな日常の触れ合いの中に、人生の岐路がいくつもあるように思います。
聖壇のお役にも、日常の営みにも、人と出会うところには、いつも幸せの種を育む場所があります。今年も、皆さまと共に幸せの種を育み、多くの方々にお分けできるよう精進させて頂きたいと思います。





