栄福の時代を目指して(14) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

米欧のポピュリズムとネオ・ファシズム
さて、10年前のこの論稿を改めて思い出してみると、暗い予感が的中してしまったと思わざるを得ない。第3回で書いたように、欧米で極右ポピュリズムが席捲(せっけん)し、イタリアではポピュリズム政党が政権を獲得し、フランスやイギリスのように民主主義の母国と思われてきた国々でも、政権や大統領を窺(うかが)うところまで権力に肉薄してきている。
極めつけは、もちろんアメリカのトランプ政権だ。トランプ派は「MAGA(アメリカを再び偉大に)」という運動に支えられて、二大政党の一つである共和党に浸透し、かつての共和党主流を周辺に追いやって共和党を外部から乗っ取った。そして、第2次トランプ政権は、「自由の国」アメリカを変貌させた。法律を無視して大統領令によって独断的な政策を行い、(ナチズムのゲシュタポのように)移民・関税執行局(ICE)によって不法移民を拘束して強制送還したり、大統領に刃向かう人々を抑圧・弾圧したり、国内でも軍隊や警察を動員したりして、民主党などの反対派を威圧した。
それは「ナチ化」とも呼ばれ、ファシズム研究者がファシズムの到来を察知して海外に亡命した。即礼君物語でも書いたように、寡頭政や王政への傾向に反対する巨大デモも起こっているものの、民主党などの政治家は萎縮して沈黙することも多い。恫喝(どうかつ)でまさしく言論の自由が抑圧され、縮小させられてしまっているわけだ。まだ議会や司法は残っており、裁判所が大統領の施策に対して違憲判決を出して、施策を中止ないし中断させることはある。まさしくファシズム的な強権政治と、民主主義や三権分立とが共存しているという点において、「ネオ・ファシズム」と言えるような混成的体制になってしまったわけだ。
2015年に、10年後にアメリカがナチ化すると予想する論文を書いたら、多くの学者たちからは正気を失ったかと疑われただろう。「今なおファシズムの世紀なのか?」というタイトルの論文を発表すること自体、勇気を要したのだ。よりによって世界の民主主義の模範とされていた「自由の国・アメリカ」について懸念が的中してしまったと思い至ると、我ながら戦慄(せんりつ)を感じるほどだ。
「上からのポピュリズム」と「下からのポピュリズム」の結合
それでも、石破政権の間は、安倍政治から脱却して民主主義が再生していたから、日本自身については比較的穏やかな気持ちで過ごすことができた。しかし高市政権の発足により、この世界の潮流が日本にもストレートに及び、瞬時の内に、アメリカと並んで危機のフロントランナーになりつつある。
これまでも、ポピュリズムの潮流が日本に現れていなかったわけではない。自民党政権で小泉純一郎元首相が「自民党をぶっ壊す」という標語のもとで高い人気を得たことも、政治学ではポピュリズムと分析された。安倍元首相が、「戦後レジームからの脱却」を掲げて長期政権を持続したのも同じだ。思想的にはそれぞれがネオ・リベラリズム(リバタリアニズム)と国家主義を中心にしているから、リバタリアニズム的ポピュリズムと、国家主義的・権威主義的ポピュリズムである。
この潮流は地方では、新興政党として現れた。大阪をはじめ関西では、日本維新の会が勃興して、大阪府市では自治体の権力を掌握し、選挙制度を変えて覇権体制を築いた。名古屋ではポピュリズム的な河村たかし市長が誕生したこともあった。東京では小池百合子氏が「都民ファーストの会」を作って、今でも都知事を継続している。
日本維新の会は、近年、全国政党となろうとして全国に候補者を擁立したが、党勢が傾いているのでさほどの成功はしていない。しかし、今年の参議院選挙では、排外主義を主張した参政党と保守党という極右政党が大きく伸長した。国民保守党と相まって、ポピュリズム政党が全国でも浮上してきたわけだ。
それでも石破政権が持続できれば、一気に危機が顕在化することはなかっただろうが、「石破おろし」によって、維新の会と連携して高市政権が成立したことによって、急速に暗転した。8月に書いた通り、平和記念式典で石破茂前首相はポピュリズムの伸張に危機感を持って「不戦の誓い」を確認したが、早くも3カ月後に戦争の危険が点滅し始めたわけだ。(先月の連載も含めて)読み直してみれば、まさしくその発言通りに、戦争の危険が生じたことがわかるだろう。維新の会もポピュリズム政党だから、自民党というこれまでの優越政党と新興のポピュリズム政党が連携して、右翼的政権を形成したことになる。
実は、この展開は、戦前日本と同じなのだ。
ポピュリズムはヨーロッパでは極右政党の伸張として現れている。既成政党で生じたのではなく、外部から起こっているから、「アウトサイダー・ポリティクス」(ⅰ)である。ドイツのナチズムや、イタリアのファシズムも、主流政党の中から起こったのではなく、ヒットラーがナチ党を作ったように、アウトサイダーが作った政治勢力だった。
ところが、戦前日本では、ファシズムの形が違った。右翼の浪人などの民間人が中心になって、当時の政治エリートや政党政治を非難し、テロ事件を引き起こして、ファシズム的な政治潮流を拡大させた。それに対して、元老などの政治エリートや既成政党が抑制や抵抗を試みたものの、ファシズム支持勢力(革新派)の暴発に押されて、近衛文麿が首相となってファシズム的軍事体制(近衛体制)を形成した。
近衛家は天皇側近の格式高い家柄だから、政治エリートが民間ファシズムの暴発や勢いに押されて作った体制である。そこで、第11回<前編>で言及した戦後の代表的政治学者・丸山眞男は、日本のファシズムをヨーロッパのファシズム(下からのファシズム)と区別して、軍部や官僚が主導した「上からのファシズム」と呼んだ。彼は、ファシズム的な民間右翼は「無法者」とも呼んでいる。
さて、今日の日本ポピュリズムを見てみると、この構図がまさしく当てはまる。極端なポピュリズム政党であるNHK党の立花孝志党首は、幾つもの事件を起こし、11月9日に元兵庫県議に対する名誉毀損容疑で逮捕され、さらに11月19日には参院選宮城選挙区での対立候補者に対する名誉毀損容疑で書類送検された。その振る舞いは、まさしく「無法者」に他ならない。維新の会や参政党は、既存の政党から見れば、外部から生じた政党なので「下からの(外部からのアウトサイダー)ポピュリズム」である。これに対して、小泉・安倍政権は自民党であり、両氏とも政治家の子息だったので、「上からの(内部からのインサイダー)ポピュリズム」だった。
同様に、自民党総裁である高市首相の政治も「上からのポピュリズム」となるわけだが、維新の会と連携することによって、「下からのポピュリズム」を包摂するという構図ができた。ここにおいて「上からのポピュリズム」と「下からのポピュリズム」が結合したわけだ。
高市政権の発足においては、自民党とNHKの会が統一会派を組んだのだから、もう一つの「下からのポピュリズム」とも結合していたことになる。さすがに党首が逮捕されたので、統一会派は解消したものの、「無法者」が党首だった政党とすら統一会派を結成したという事実は消えない。このように、従来の自民党政権とは変質しているのである。
日本におけるネオ・ファシズムと戦争
このような観点から見れば、アメリカは、トランプ氏という特異な人物を支持するMAGA運動の影響力が、共和党という既成政党の内部で強まり、政党を主導するに至ったという点で、「下からの(アウトサイダー)ポピュリズム」が「上からの(インサイダー)ポピュリズム」になったという点で、欧州と日本の中間的形態だ。関税政策による物価高騰や、エプスタイン事件(第12回参照)によって、トランプの支持率は下降しているが、第1次政権の終わり方から見て、次の大統領選挙を公正に行うかどうか疑われている。たとえば、民主党の有力大統領候補であるギャビン・ニューサム・カリフォルニア州知事は、大統領選挙を行わないように画策するのではないか、という警鐘を鳴らしている。これは、「自由の国・アメリカ」の終焉(しゅうえん)と権威主義的政治への移行を意味する。
まだ今の日本では国会や野党は存在するし、次も国政選挙は行われるだろう。でも高市首相は、安倍内閣の総務大臣だった時の衆院予算委員会で、放送法や電波法に関して、放送事業者が「政治的公平性」を欠く放送を繰り返せば、「将来にわたって罰則規定を一切適用しないとは担保できない」と繰り返し答弁して、電波停止の可能性を示唆した(2016年)。ここから見て、トランプ大統領と同じように、自由な言論を封殺する強権的姿勢を取る危険性が考えられる。これはまさしく日本の自由民主主義の危機だ。
ファシズムに至った戦前日本政治も「ポピュリズム」という観点から説明できる(ⅱ)。そもそも近年の極右ポピュリズム自体も、歴史的なポピュリズムから見れば「ネオ・ポピュリズム」と言うことができるのだが、この用語法だと日本でも「ネオ・ポピュリズム」が現れていることになる。同様に、ファシズムという概念を用いれば、「混成的ネオ・ファシズム」の危険すらある。先述したように、このネオ・ファシズムは、かつてのファシズムと同じ形態で起こるのではなく、今のトランプ政権のように、議会制とも両立し得る。
戦前は1929年に世界大恐慌が起こり、日本でも1930年に昭和恐慌が生じて、それが大きな契機となって、日本では政情不安が起こり満州事変を1931年に引き起こして第2次世界大戦へと突入していった。恐るべき事は、ネオ・ファシズムのもとで、このパターンまで再現するという危険があることだ。
トランプ政権の経済的失政によって、アメリカ経済は顕著な停滞過程に入り、サブプライムローンの破綻が9月から相次いで金融界に危険信号が灯っている。2008年のリーマン・ショックは、前年頃のサブプライム住宅ローン破綻に続いていることを想起すれば、アメリカの株価上昇は、いつ破綻して反転するかわからない。同様に、高市政権発足後の株価上昇も、上記のトリプル・ショックとともに、やはりバブルのように弾けて崩壊する危険が少なくないのである。
戦前の恐慌により、生活苦に悩む人々はファシズムという「偽りの希望」に幻惑され、ファシズムを加速させて「上からのファシズム」体制を成立させ、戦争を拡大しついに日米戦争を引き起こした。先月に簡単に述べたように、物価高や裏金問題によって与党に失望した人々が今年の参議院選挙では、「外国人が悪い」と主張するポピュリズム政党に投票した。さらに経済問題が深刻化すると、その人々は「中国が悪い」という民間右翼に煽(あお)られて、「ネオ・ポピュリズム=ネオ・ファシズム」を支持し、中国との対立を激化させかねない。これが、日中戦争の再現という最悪のシナリオだ。
徳義共生外交と友愛平和の祈り
よって、平和を希求する人々がなすべきことは、そのような悪夢が実現しないように、真剣に願い、祈り、行動することだ。中国外務省の「もし日本が大胆不敵にも台湾情勢に武力介入すれば侵略行為であり、中国は必ず正面から痛撃を加える」(林剣副報道局長、13日)とか「われわれは日本に告げる。台湾問題で火遊びをするな。火遊びをすれば必ず身を滅ぼす」という警告を軽視してはならない。核兵器を持つ中国と戦火を交えるようなことになれば、日本人の生命が大量に失われ、国家が破滅する危険すら想定しなければならないから、防止することが必要だ。
中国は、国際的に対日批判を行うと同時に、ついに国連憲章の敵国条項をあげて、「ドイツ・イタリア・日本などのファシズム/軍国主義国家が再び侵略政策に向けた行動を取った場合でも、国連創設国は、安全保障理事会の許可を要することなく、直接軍事行動を取る権利を有する」という趣旨の規定があることをXで発信した(駐日中国大使館、11月21日)。外務省はこの条項は死文化していると反論したが、条文自体は存続している。これは、れいわ新選組の山本太郎代表が繰り返し言及していることであり、慧眼(けいがん)がこの展開によって証左された。最大の問題は、不用意な高市発言のために、中国がこの条項に言及し、死文化しているように見えた条項が生き返ってしまいかねないことである。この場合、論理的には、日本が侵略に向かう行動を取ったと中国が認定すれば、国連安保理の承認なしに、中国は日本に軍事行動を取れることになってしまう。この危険性を一人でも多くの人に知ってほしい。日本側が死文化しているといくら主張しても、中国がこの条項を根拠に軍事攻撃を行う可能性が生じてしまう。軽はずみな発言でこの論理を呼び起こしてしまった首相の責任は、日本人の生命の危険を増やしてしまったのだから、いくら厳しく問われても問われすぎることはない。
この国難からの脱出には、コミュニタリアニズム(徳義共生主義)による外交が大事だ。それは、徳義にも基づく共生の外交、つまり「徳義共生外交」によって、中国政府との信頼関係を回復し、友好関係と平和の回復に努めることである。明々白々の大失言にもかかわらず、高市首相が未だに高支持率を保っている事態こそ、危険だ。大メディアも政治家も、総じて批判があまりにも弱い。時の雰囲気に流されて戦争へと押し流されていった戦前ファシズム期の轍(てつ)を踏んではならない。このような現象こそ、ポピュリズム、そして日本文化の問題点そのものである。理性を保っている人たちには、迫り来る危険と回避策を周囲の人々に語り伝え、政治家をはじめ影響力のある人々に訴えることを望みたい。
そして、平和を願う宗教的な祈りも必要だ。「9・11」(米国同時多発テロ事件)後のアフガニスタン戦争やイラク戦争の時に、私は「友愛平和」を強調し、宗派を超えた祈りを「友愛平和の祈り」と呼んだ。今度は、日本自身のために、多くの人々がそれぞれの形式でこのような祈りを行い、戦争への道に抗して友愛平和を願わなければならない危機のとば口に、今まさに私たちは立っているのである。
(ⅰ)水島治郎『アウトサイダー・ポリティクス』、岩波書店、2025年
(ⅱ)筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』、中公新書、2018年
プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)など。





