苦しむ人々に寄り添った教皇の葬儀(海外通信・バチカン支局)

聖ペトロ大聖堂には、世界中から信徒や諸宗教指導者らが参集した(カーシャ・アルテミアク撮影)
4月21日に亡くなったローマ教皇フランシスコの遺体は23日午前9時、バチカン広場に参集した約2万の人々の「涙と拍手」に送られながら、居所の「聖マルタの家」から聖ペトロ大聖堂(サンピエトロ大聖堂)へと運ばれた。11時からは一般弔問の儀が開始された。
弔問開始前のバチカン広場には既に、長蛇の列ができていた。3日間続いた一般弔問の儀には、「貧者を慈しみ、疎外されている人々を擁護した」教皇に別れを告げる約25万の人々が参列した。ゆっくりと大聖堂へと向かう長い列に並ぶ人々は、各国テレビ局のインタビューに応じ、「平和を際限なく訴えた、多くの戦争に苦しむ現代に必要な教皇だった」「シンプルな教皇で、私たちと共にある人だった。外に出ていく教会を主張し、兄弟愛と環境論の回勅を通して、人間と地球の痛みの声を伝えた。神が、守り続けていくようにと、私たちに与えてくださった教皇だった」「私は無神論者だが、彼の教えに共鳴して弔問に来た」とコメントした。
1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、北イタリアからの移民家族の家庭に生まれた教皇フランシスコは、69年に神父に叙階され、98年にはアルゼンチンのカトリック教会の最高指導者であるブエノスアイレスの大司教に任命された。そして、教皇ヨハネ・パウロ二世は2001年、彼を枢機卿の位に挙げた。
その年、アルゼンチンは、大規模な金融債務危機に襲われ、国民の多くが「夢と財産」を失っていく。金融債務危機によって全てを失った人々、失業した人々が夜、子どもたちを寝かしつけてから泣く姿を頻繁に見るようになった。中産階級に属すると信じていた夫婦たちが、夜な夜な泣き崩れる姿を眼前に、後の教皇は、国際金融システムを「金融テロ」と呼び、「金融経済の偶像化」として非難した。金融経済の破綻によって失業した人々を見て、労働の価値観を重要視する経済の必要性についても説いた。アルゼンチンのカトリック教会全体が、苦に涙を流す民と共に歩まなければならない状況に追い込まれたのだ。
後の教皇は、「貧者の選択」を福音の教えと説き、金融を偶像化する世界の経済システムの歪(ひず)みを指摘しながら、その歪みが難民を生み出し、地球環境を破壊するとして、「社会正義」という視点から糾弾するようになった。その背後には、アルゼンチン国民が流した涙があった。教皇フランシスコの「貧しく、苦しむ人々と共にある」との社会理念は、社会正義を基盤とした階級間での協力、国際的な経済の独裁からの自立、非同盟主義、共産主義と資本主義との間での第三の道、労働の重視などを説いた同国の「ペロン主義」や、第二バチカン公会議以降に中南米諸国で台頭してきた「解放の神学」による「貧者の選択」からの影響も受けている。
バチカンの聖ペトロ大聖堂での一般弔問の儀は25日午後7時に終わり、8時から「棺(ひつぎ)を閉める式典」が執り行われた。
棺を閉める前に、筒に入れられた教皇の略歴が棺に挿入されたが、その中には「(ブエノスアイレス)大司教区の全域を地下鉄や路線バスに乗って巡り歩いた。シンプルで、大司教区内において非常に愛され、庶民の一人であると確信していた司牧者(指導者)だった」と記されていた。また、13年に教皇に選出された時には、「世界の貧者への配慮を優先させるためにアッシジの聖人の名を(法名として)選んだ」のだった。「ムスリム(イスラーム教徒)や他の諸宗教の代表者たちとの対話のための飽くことなき貢献によって教皇職を遂行し、時には、諸宗教者による祈りの集会を招集した。19年にはアラブ首長国連邦(UAE)のアブダビでイスラーム・スンニ派最高権威機関「アズハル」(エジプト・カイロ)のアハメド・タイエブ総長と『人類の友愛に関する文書』に署名したように、諸信仰者間における調和を促進するための合同文書に署名した」とも記録された。
10回に及ぶ枢機卿会議によって世界の72カ国から163人の枢機卿(教皇選挙有権者133人、80歳以上の非有権者30人)を任命し、そのうちの23人が、過去に枢機卿を輩出していない教区からの任命だったことも強調された。20年3月27日、新型コロナウイルス感染症が蔓延(まんえん)する最中に、誰一人いないバチカン広場の階段壇上にポツンと座り、得体の知れないウイルスに襲われ、恐怖する人類のために祈った。慄(おのの)く人類を象徴する壮絶な孤独のイメージは、テレビを通して全世界を駆け巡った。そして、その晩年は、「特にウクライナ、同時にパレスチナ、イスラエル、レバノン、ミャンマーで展開される、断片的に戦われている第三次世界大戦に対する和平アピール」によって特徴づけられた。
- 一般弔問終了後棺を閉める式典(写真はバチカンメディア提供)