信仰に確固とした根を張って――名誉教皇ベネディクト十六世の遺言(海外通信・バチカン支局)

サンピエトロ大聖堂で弔問する一般信徒たち(1月2日、バチカンメディア提供)

ローマ教皇フランシスコは昨年12月28日、バチカンで行われた水曜恒例の一般謁見(えっけん)の終わりに、名誉教皇ベネディクト十六世の病状に言及し、「沈黙のうちにカトリック教会を支えている、名誉教皇ベネディクト(十六世)の容体が悪化している。主なるキリストが彼を慰め、彼のカトリック教会に対する愛の証しを最後まで支えてくださるように、特別なる祈りを捧げよう」と参集した信徒たちに呼びかけた。それから3日後、バチカンのマテオ・ブルーニ報道官は、バチカン記者室に詰める国際記者たちに対し、「名誉教皇ベネディクト十六世が今朝(31日)9時34分(現地時間)、バチカンにあるマーテル・エクレジエ(教会の母)修道院で死去した」と明らかにした。また、弔問の受け付けは年が明けた1月2日から4日にかけて行われ、葬儀は5日の午前9時30分からサンピエトロ広場で挙行されると公表した。

訃報に接した現教皇は、すぐに名誉教皇が永眠する修道院を訪問し、遺体の前で祈りを捧げた。さらに、同日、サンピエトロ大聖堂で挙行した年末の「神を賛美する式典」の席上、「感動を持って、高貴で優しかった名誉教皇を追憶」し、「神が彼をカトリック教会と世界に与えてくださったこと、彼が実現した全ての善、特に、退位後の隠遁(いんとん)生活を通して示した信仰と祈りの証しに対して、心からの謝意を禁じ得ない」と吐露。「神のみが、彼の祈りの価値と力、カトリック教会の善のために捧げた犠牲を知っておられる」と故人を偲(しの)んだ。「カトリック教会の善のために捧げた犠牲」が、2013年の名誉教皇の生前退位を示していることは明らかだ。

名誉教皇ベネディクト十六世(俗名ヨゼフ・ラッツィンガー)は1927年、ドイツ南東部のパッサウ教区で生を受けた。第二バチカン公会議(1962~65年)で神学顧問を務め、77年には教皇パウロ六世からミュンヘン・フライジング大司教を任命された。同年、パウロ六世によって枢機卿に登用。81年には、教皇ヨハネ・パウロ二世からカトリック教義の純粋性を守る最高機関「教理省」の長官に抜擢(ばってき)された。

2005年、教皇ヨハネ・パウロ二世帰天後のコンクラーベ(教皇選挙)で、選挙前から圧倒的な支持を得て第265代教皇に選出され、ベネディクト十六世を名乗った。就任の挨拶では、自身を「主キリストのぶどう園(カトリック教会)で働く謙虚な労働者」と称し、「真理を基盤とする愛」をカトリック教会統治の基本政策とした。

8年間の在任中、三つの回勅(教皇が公布する最高権威教書)「神は愛なり」(05年)、「救いへの希望」(07年)、「真理のうちにおける愛」(09年)を公布し、カトリック教会に対する施政方針を明かした。さらに、12、13の両年を「信仰のための特別年」と制定するなどしたが、カトリック教会内部から噴出した聖職者による児童性虐待問題への対処、自身の執事による機密文書(バチカン諸機関内部への不満)の外部流出スキャンダル(Vatileaks)などに悩まされ、健康を崩していった。

そして、13年2月11日、バチカンに招集した枢機卿会議で、「神の前で何度も自身の良心に問いかけ、高齢による体力の低下で教皇職を適切に遂行できないとの確信に至った」と発言。「急速な変化と、信仰生活に関する重大な諸問題に揺れ動く現代世界において、聖ペトロの船(カトリック教会)を舵(かじ)取りし、福音を伝えるためには、体力だけでなく気力が必要とされる。だが、この数カ月間で、私に託された教皇職の遂行が不可能だと認めざるを得なくなった」と述べた。同年2月28日、教皇職を退位して名誉教皇となり、バチカン市国内の修道院で、祈り、瞑想(めいそう)、研究、執筆活動を通して、カトリック教会を支えた。