諸宗教協力を通して和解を説き続けたサラエボ大司教が引退(海外通信・バチカン支局)

1997年、ボスニア・ヘルツェゴビナを訪れた庭野会長と、諸宗教協議会の設立に向けて意見を交わすプリッチ師(ボスニアの枢機卿館)

ローマ教皇フランシスコは1月29日、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ大司教であるヴィンコ・プリッチ枢機卿(ボスニア人)が一昨年に定年となる75歳を迎えて提出していた辞表を受理した。カトリック教会では、教会法によって司教の定年を75歳に定めているためで、プリッチ師は同日、サラエボ名誉大司教となった。これまで同大司教区補佐司教を務めてきたトモ・ブクシッチ師が大司教に任命された。

プリッチ師は1990年、サラエボにあるカトリック神学校の副校長に登用された。同年、教皇ヨハネ・パウロ二世によってサラエボの大司教に任命され、翌91年に司教の叙階を受けた。この年、ユーゴスラビアから、スロベニア、クロアチアが独立を宣言し、クロアチアの独立を巡って内戦(旧ユーゴスラビア紛争)が起こる。

やがてプリッチ師を待ち受けていたのは、92年にユーゴスラビアに属していたボスニア・ヘルツェゴビナの独立を巡って起きたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(旧ユーゴスラビア紛争の一つ)だった。

ボスニア・ヘルツェゴビナは領域内にムスリム(イスラーム教徒)を主流とするボスニア人、正教徒の多いセルビア人、カトリック教徒を主体とするクロアチア人の3民族がほぼ同等の勢力で暮らしており、独立支持(ムスリム、クロアチア人)と反対(セルビア)の対立が激化。3民族が互いを追放、虐殺する「民族浄化」を実行する悲惨な紛争に発展し、約3年で20万人を超える死者と、250万人以上の難民を生んだ。この紛争で首都サラエボは、セルビア勢力の軍隊に包囲され、人々は狙撃兵が構える銃口におびえて暮らしていた。プリッチ師はそのサラエボから全世界に向けて、同国の和平と、人権の擁護を痛切に訴えた。自身の生命の危険を顧みずに起こした行動によって、12時間にわたりセルビア軍に拘束されたこともあった。

また、正義に適(かな)った和平を追求していくため、諸宗教対話の意義を重視し、93年と94年に諸宗教者による和平集会を実施した。サラエボ空港で開催された集いには、ロシア正教会のアレクセイ二世総主教、セルビア正教会のパヴレ総主教、クロアチア・カトリック教会のクハリッチ枢機卿らが参加した。この中で、プリッチ師は、和平実現と、そのための3民族の和解を切実に訴えた。その声はバチカンにも届き、教皇ヨハネ・パウロ二世は94年、同師を49歳の若さで枢機卿に任命した。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は95年の「デイトン合意」によって終結し、同国は、ボスニア人、クロアチア人の勢力からなる「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア人勢力の「スルプスカ共和国」で構成される連合国家となった。だが、3民族の和解と、一つの主権国家の構築に向けたプロセスは難航。97年、そうした状況を打開するため、プリッチ師は国内3宗教(カトリック、セルビア正教、ユダヤ教)の最高指導者と共に、「ボスニア・ヘルツェゴビナ諸宗教評議会」の設立に向けて動き出した。

この取り組みは、世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)国際委員会が主導してきたもので、同年9月30日から10月3日まで、WCRP/RfP国際委員会会長を務める庭野日鑛会長(立正佼成会)が同国を訪れ、プリッチ師をはじめ4人の宗教指導者と面会し、橋渡し役を務めた。1日にプリッチ師と面会した庭野会長は、「百聞は一見に如(し)かずという言葉があるが、実際にサラエボを訪問し、その破壊の様子に驚いた」と率直な印象を伝えた。これに対してプリッチ師は、「IRC(諸宗教評議会)の設立こそが、和解への唯一の道だと信じている。そして今回、庭野先生がわれわれの橋渡し役として来てくださった。今晩、庭野先生のお招きで4宗教の代表がそろって懇親会に参加させて頂くが、これは大変な出来事。実を言うと、最近さまざまな問題があり、一堂に会することができなかった。庭野先生がボスニアに来てくださったことは単なる訪問ではない。われわれに『勇気を出して、もう一度対話していこう』という気を起こさせてくれた」と謝意を表した。

また、この年は、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「歴史的なサラエボ初訪問を果たした」年としても知られる。

ラジオや書面を通して、民族間の融和を訴え続けたプリッチ師。時には過激な民族主義者たちの標的になりつつも、そのメッセージは、一般市民や政治指導者に支持され、特に紛争が最も激化した時には、人々に指針を与える役割を果たした。カトリック信徒だけでなく、ムスリムや他宗教の信徒たちからも広く受け入れられた。
(宮平宏・本紙バチカン支局長)