内藤麻里子の文芸観察(65)

今年は戦後80年、そこでこんな本を選んでみた。伊吹亜門さんの『路地裏の二・二六』(PHP研究所)は、結果的に陸軍の発言力を強めた二・二六事件を題材にして、その裏で起きていたもう一つの事件を虚実ない交ぜにして描いてみせた歴史ミステリーだ。

昭和10(1935)年8月、陸軍省軍務局長、永田鉄山少将の惨殺事件から物語の幕は開く。当時、陸軍内部は国家革新を訴える皇道派と、それを抑え一元的統制のもとに国家改造をはかる統制派の派閥間闘争が繰り広げられていた。永田の惨殺はこの流れの中で起きたのだ。憲兵司令部に所属する浪越破六(ばろく)大尉は、教育総監の渡辺錠太郎(じょうたろう)大将から、皇道派のある二人の人物について内偵するよう依頼を受ける。

そんな矢先、二人のうちの一人が殺されてしまう。犯行に及んだと思(おぼ)しき歩兵少佐はその場で自決し、既に自身の家族まで殺していたとみられた。次々に出来(しゅったい)する凶行。一方で浪越が調べる皇道派とつながる国家主義者は、門下生に枢密院議長宅や台湾銀行東京支店長宅など相次いで爆弾テロを仕掛けさせていた。

混沌(こんとん)とする事態を浪越は怜悧(れいり)な眼力と、先を読む行動力で解いていく。各地の士官に憲兵、特高、警察署などが絡む複雑な現場で、嘘(うそ)も方便、真実を呑(の)み込むことも平気だ。明かすことも必要最小限。なにせクールなのだ。妻も子もおらず、荷物も少ないから住まいはホテルである。

主人公がこうだから、陰惨な事件が続くが、謎に後押しされて次々と読まされてしまう。時折登場する本格ミステリーのような細かい謎解きも一興だ。それだけでなく、不都合な事実は隠蔽(いんぺい)する軍隊の危うさとか、時代の不穏さ、世相をきっちりとエンターテインメントの中に溶け込ませた。

さて、皇道派は昭和11年の二・二六事件に向けて疾走する。これを背景にした一連の殺人事件、テロ行為は何を意味するのか――。たどり着いた真相と、浪越の決着のつけ方に二度、三度驚いた。この決着のつけ方が本書の肝であろう。歴史の中で悲しみ、怨(うら)み、恐れるのは結局、個々の人間なのだと思い知らされもする。そして、それでも浪越は一人我が道を歩いていくのだ。クールに描く人間の業といったらいいだろうか。

著者は『刀と傘 明治京洛推理帖』や『焔(ほむら)と雪 京都探偵物語』など歴史ミステリーで知られる。実は本書には、過去作のキャラクターが顔を見せている。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

【あわせて読みたい――関連記事】
内藤麻里子の文芸観察