内藤麻里子の文芸観察(62)

そういえば、新型コロナウイルス感染症が広がる前、鉄道会社の車庫などに侵入して列車に落書きする事件が相次いでいた。そんなことを思い出させてくれたのが、井上先斗(さきと)さんの『イッツ・ダ・ボム』(文藝春秋)だ。あの時、車体に書かれた文字などはグラフィティと言い、それを記した者をグラフィティライターと呼ぶのだそうだ。グラフィティを街中で目にしたこともおありだろう。斯界(しかい)のスターはバンクシーである。同書はグラフィティおよびグラフィティライターの進化系を描いた物語だ。

しがないライター(これは著述業の方のライターだ)の「私」が、彗星(すいせい)のごとく現れたグラフィティライター「ブラックロータス」にひかれ、本を書けないかと考えたところから幕が開く。とはいえ、グラフィティに関しては門外漢ゆえ一から取材を始めるのが、読む側からするといい水先案内になっている。グラフィティは壁や電柱、橋桁(はしげた)などにイリーガル(不法)に書かれる。「俺はここにいたぞ」という署名であり、叫びなのだという。そんなふうに「私」と共に知識を得ながら、物語世界に誘(いざな)われていく。

ブラックロータスのグラフィティは、一般的なものとは少々異なる。第1作は、カードゲーム界で伝説とも言われるほど希少なカードのコピーを路上に置いた。カードを踏みつけたり、気づいて驚愕(きょうがく)したりする通行人の様子を、ストリートアート界の大御所カメラマンが撮影したことで世間に認知された。今のところ4作が認知されているが、4作目は選挙ポスターに手を加えた点で、それまでの作風とは差がある。

「私」が追うのは、ブラックロータスの正体ではなく、やっていることの意味だ。その作品を撮影したカメラマンや、商業的にも活躍している、あるいは商業的なことには見向きもしないグラフィティライターらに取材を重ねていく。虚実取り混ぜてブラックロータスに迫る熱い波を作り出し、さらに世界が反転するような仕掛けも用意している。これが「第一部 オン・ザ・ストリート」だ。

続く「第二部 イッツ・ダ・ボム」は、思わぬ展開を見せる。説明は興を削(そ)ぐので控えたい。いずれにせよ、一気に街じゅうを駆け抜けたような読書体験ができる。

グラフィティというストリートカルチャーを明快に、落ち着いた筆致で描いている。かつて若者といえば持て余した情熱や反抗というイメージだったが、進化した現代では何というか、とても整っている。それがいいか悪いかは別問題として、考えさせられる点が多かった。松本清張賞を受賞したデビュー作である。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

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