内藤麻里子の文芸観察(59)

大森兄弟さんの『めでたし、めでたし』(中央公論新社)は、奇想の物語だ。桃太郎ならぬ「桃次郎」による鬼退治の後日譚(ごじつたん)を饒舌(じょうぜつ)な混乱の中に語りながら、物語の終焉(しゅうえん)をめぐる葛藤を織り込んでみせた。変幻自在な文章に酔うもよし、バカバカしく楽しむもよし、なにやら深淵(しんえん)さを読み取ってもいい。

猿、犬、雉(きじ)を従えて鬼退治をした桃次郎は、戦い終えて帰還すると、鬼から奪い返した宝物を元の持ち主に返すべく、国中におふれを発した。自分こそ持ち主と名乗り出る人々は、大行列となって順番待ちをする事態に。しかし、全く返還は進まない。桃次郎ときたら、持ち帰った鬼の大将の首を片時も離さず呆(ほう)けている。猿と犬はそんな御君の姿にジリジリしながら、熊娘(くまむすめ)や大尻好きの人翁(ひとおきな)ら、面妖な申立人の相手をするばかり。雉は3歩歩けば忘れてしまう鳥ゆえ、命令に反する行動を取り続ける。

こんな筋立てをつづる文体は大胆にして繊細。例えば襲い来る痛みをこんなふうに表現する。「痺れの膜はもう薄絹のはかなさで荒れ狂う激痛が透けるほど」。言葉遊びにもあふれている。大尻好きの人翁は返してくれない宝を盗み出そうとして捕まり、「尻の言うなりゆえの匹夫(ひっぷ)の勇なり」と高笑い。神話やおとぎ話、慣用句に地口(じぐち)がわんさかまぶされて、名調子で語られていく。それらにピクピク反応しつつ読むのも楽しい。

事態が混沌(こんとん)としているのは、御君が愛(め)でる鬼の首のせいではないかと気づいた猿が一計を案じ、御君と従者の手に汗握る攻防が始まる。この桃次郎、怪力無双の上に神通力もあり、「桃太郎」のような明快なヒーローではない。こんな化け物に対峙(たいじ)する猿たちの恐怖にハラハラする一方で、破天荒な成り行きに笑いが込み上げてくる。

桃次郎の神通力は「稿眼(こうがん)」と言って、怒れば額に目が開き、睨(にら)まれたものは石と化す能力がある。そうなると眼界が幾千幾万のマス目に覆われ、例えば河原は「い」と「し」に埋めつくされた場所となり、逃げる男を「あ」「け」「び」に書き替えることもできる。こうした小説の中で小説を語るメタフィクション的仕掛けが、奇想にぴたりとはまる。さて、このお話は「めでたし、めでたし」を迎えられるか――。

終幕に、なるほどと納得したが、メタフィクションがどうとかを気にするのはこざかしいかもしれない。『桃太郎』を彷彿(ほうふつ)とさせるおとぎ話の気安さに乗って、企(たくら)みと文体の妙を存分に味わってもらいたい。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

【あわせて読みたい――関連記事】
内藤麻里子の文芸観察