内藤麻里子の文芸観察(42)

宮本輝さんの『よき時を思う』(集英社)は、現代のおとぎ話と言ってもいいかもしれない。流れるような文章の美しさと、悠々とした書きぶりを堪能した。

主人公の金井綾乃は29歳の会社員。東京・東小金井にある、中国の伝統的な建築様式「四合院(しごういん)造り」の家の1棟に間借りしている。四合院造りの家とは「方形の中庭を囲んで、一棟三室、東西南北四棟を単位とする」もの。中国・北京の胡同(フートン)地区でよく見る建築だったが、北京オリンピックのために取り壊されてしまったのだという。のっけからこの家の存在感に取り込まれ、現実とファンタジーのあわいにいるような空気感が漂ってくる。

物語は綾乃の祖母、徳子が90歳になった記念に、晩餐会(ばんさんかい)をすると言い出したことで動き始める。それも男性はタキシード、女性はイブニングドレス着用の正式なものだ。元教師であるこの祖母がただ者ではないのである。例えば吃音(きつおん)に悩む少年たちに、法華経の「妙音菩薩品第二十四」を「これはぼくのことを書いてあるんやと決めて読むのよ。すべて真実やと決めて読むのよ」と薦めたりする。ちなみにこの菩薩は「釈迦の説く法華経を最も美しい声で衆生に聞かせるのを使命とする」が、吃音なのだという。端倪(たんげい)すべからざる知見と胆力を持つ。そんな徳子は息子夫婦や孫4人をはじめとした家族に尊敬され、大切にされている。

祖母に対するこの扱い一つとっても、奇跡の家族である。徳子の過去や、家族それぞれの性格や生活が鮮やかに紹介され、誰一人ダメな人、嫌な人はいない。誰もが生き生きとしてユニークだ。晩餐会の本来の意味が示されるのだが、それを知ると自分はおざなりに生きていないかと省みたりしてしまう。本書は、つらく厳しい現実を生きる私たちに、ふと与えられた幸せの小箱の中の物語のような気がする。現代のおとぎ話というゆえんである。

これらをつづる筆はなめらか。綾乃が帰省途中に立ち寄る京都の町歩きや、肝心要の晩餐会の進行は、軽妙にして詳細な筆に導かれてあたかもその世界にいるような臨場感を覚える。

さて、夢のような話もやがて終幕を迎える。すると、話は四合院造りの家に戻る。この家の大家の物語がラストを飾る。ちょっとうまくいっていない父と息子の間柄が描かれ、きっちり現実に着地するかのような構成だ。四合院が見せた上等な夢のような味わいに、ゆったり浸った読書だった。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

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