被爆の記憶を受け継ぎ、非戦の誓いと平和の尊さ語る 広島被爆体験伝承者・細光規江さん

広島市の平和記念公園

やがて、爆心地から4キロほどの親戚の家でお父さんが保護されていることが分かりました。家に戻ってきたお父さんの姿は、全身が大やけどで真っ黒。目は見開いたままで、ザクロの実が割れたように唇がめくれてしまっています。

この人、本当に父親なんだろうか。その時、一緒に逃げる途中ではぐれた、「きち」というお母さんの名前を呼び、お母さんを捜してくれと言いました。その名を聞いてやっと、お父さんと分かったのです。

お父さんは、しきりに水を欲しがります。けれども、やけどをした人が水を飲むとすぐに死んでしまうと聞いていたので、「今ね、水道が止まっとるけえ、あげられんのよ」と、うそをつくしかありませんでした。

8日の夜、お父さんは亡くなりました。笠岡さんは、水を飲ませてあげられなかったことを今も悔やんでいます。

家が海のそばだったので、砂浜に穴を掘って木切れを集め、火の番をしながらお父さんを火葬しました。海岸のあちらこちらでたくさんの遺体が焼かれ、そこから青白い火の玉がいっぱい飛んでいたのです。生きたい! 生きたい!――火の玉は、そう心を残して死んだ人の魂だと思いました。

お父さんは52歳でした。やり残したことや奥さんのこと、子供を残して死ぬことなど、本当に無念だったと思います。

一方、お母さんはどうだったのでしょうか。お兄さんが捜し回ったところ、広島市内ではなく、広島湾の沖合いに浮かぶ似島にある救護所の名簿に、お母さんの名前を見つけました。もう、亡くなった後でした。

ここには約1万人のけが人が運ばれ、その多くが亡くなりました。遺体は空き地の片隅に山と積まれて油を掛けられ、一斉に焼かれます。お母さんもその中にいました。

後から分かったことですが、お母さんも8日に亡くなっていたとのこと。傷ついた自分よりも子供たちのことが心配で、自宅に帰ろうとしていたのでしょうが、それもかなわずに一人で亡くなってしまったのです。

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