自死・自殺を仏教の視点から考える 仏教学者・佐々木閑氏
仏教には「創造主」がいません。私たちは偶然、輪廻(りんね)の世界に生まれた生物であり、全てが苦しみであるという世界で悩みながら生きる運命を背負っています。これは、生まれながらに、誰かから生きる意味を授かったわけではないということです。同時に、生きる意味を自分自身で見つけるしかないということでもあります。ですから、自分の人生が誰かにつくられたものでない以上、私たちは生きることに負い目を感じる必要はありません。生きる権利はありますが、生きる義務を負わされているわけではないのです。
その上で、仏教で自殺が悪なのかどうかを考えてみたいと思います。悪には2種類あります。一つは世俗的な意味での悪です。将来の自分に苦しみをもたらす行為を指し、例えば、うそをつく、盗むといったことが挙げられます。もしそうした行為により犯罪に及んだら、逮捕され、服役するなどの苦しみを受けることになります。これは私たちが暮らす社会では当たり前のルールで、仏教に限らない世俗的な善悪観と言えましょう。
もう一つは仏教的な意味での悪です。仏教は、仏道修行によって涅槃(ねはん)を目指しており、自らの心を変えることによって、輪廻から逃れることが目的です。そのため、涅槃への道を妨げ、輪廻を継続させる行為は全て悪である、という考え方が存在します。
さて、自殺はどちらかに入るのでしょうか。まずは世俗的な意味から、自殺が後に苦しみを受けるかどうかについてですが、自殺は、すでに苦しみを受けている人が、その苦しみを消すために行う行為です。新たな悪を生む行為ではありませんから、自殺は悪にはなり得ないのです。また、涅槃への道の邪魔になるかといえば、それも違います。ただし、もったいない行為だとは言えるかもしれません。せっかく人として生まれて、悟りを開く道を歩む機会があるのに、自ら命を絶ち、これを逃すのは惜しい行為と考えられます。しかし、悪いことだとは言えません。このように、世俗的、仏教的な面から見ても、自殺は悪に入らないのです。