自死・自殺を仏教の視点から考える 仏教学者・佐々木閑氏
釈尊は、「人は全て平等である」と説いています。この意味について、カースト制のもと、人が生まれながらに差別されていた当時のインドでは、生まれで人を差別しない教えととらえることもできます。しかし、それだけではありません。私たちは無意識のうちに、人は平等という意味を、“生きている人”は平等であると考えてしまいがちです。しかし実際のところ、人としてこの世に生まれてきた者が、いつ死に、いつ生まれるかは分かりません。全ての存在は偶然に過ぎないのです。そのため、死者も生者も隔てなく、皆が平等であると釈迦は示したのだと、私は考えています。つまり、「全ての人が平等である」という言葉の真の意味は、「生きている人と死んだ人には何の違いもない」ということなのです。
自殺が悪かどうか。これはいい加減に論じられてはならないものです。私自身がいつも、自死・自殺について語る際、大切にしていることがあります。それは、この場に、亡くなった方も一緒におられる、という気持ちで話す姿勢です。人が全て平等であるならば、死んでいる人は、自分の思いや意見を人に伝えられないというハンディキャップを背負っているのだと理解した上で、「私たちのそばに今、座っておられる」と考えるべきなのです。それが、釈尊の説く「平等」であると考えます。
社会では、自殺に対するイメージが間違った形で広がりをみせており、とても残念に思います。前述の「自殺は犯罪である」という考え方に加えて、自殺した人は「弱い人だった」「愚かな人だった」というような見方、考え方が今なお存在し続けています。こうした考えが生まれるのは、生きている私たちが正常であって、亡くなった方は正常な世界から外れた人間であるという意識があるからではないでしょうか。これは、驕(おご)りであり、実は、欲望や、世俗の楽しみにしがみついて生きている私たちの方が、よほど劣った人間なのではないかと感じることがあります。この自死・自殺の問題を考える上で、釈迦が示した“平等”というものを、いま一度、とらえ直す必要があると思います。
(11月10日、京都市で行われた「仏教と自死に関する国際シンポジウム」の基調講演から)
プロフィル
ささき・しずか 1956年、福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科、文学部哲学科仏教学専攻卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。カリフォルニア大学大学院留学を経て、現職。著書に『日々是修行』(筑摩書房)、『ブッダに学ぶ「やり抜く力」』(宝島社)、『「律」に学ぶ生き方の智慧』『ごまかさない仏教』(新潮社)など多数。