【『永平広録』現代語訳の著者・木村清孝氏】自分なりの“よりどころ”が見つかる一冊

『永平広録』現代語訳の著者・木村清孝氏

仏教学者の木村清孝氏の書籍『『永平広録』「上堂語・小参」全訳注』上下巻(佼成出版社)が先ごろ発刊された。『永平広録』とは鎌倉初期の禅僧で曹洞宗の開祖・道元の説法や法話を集めた語録集で、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』と共に道元思想の理解に不可欠な著作といわれる。自身も曹洞宗の僧侶でありながら、長年、華厳思想を基にした東アジア仏教を研究してきた木村氏が、「念願の一つ」という道元思想の全体像を描き出した一冊。発刊を記念し、著者の木村氏に、道元との出会いや書籍に込めた思いなどを語ってもらった。

道元に触れて

――道元に触れたきっかけを教えてください

私の生家は曹洞宗の寺で、父は僧侶をしていました。将来は寺を継ぐ身でしたが、父の許しを得て、東京教育大学(現・筑波大学)に進学し、哲学科で倫理学を専攻しました。当時は学生運動が盛んな時代で、友人と社会や宗教について議論を交わし、大変有意義な学生生活を送りました。ですが、卒業論文のテーマを考える段になり、私も寺の息子ですね、宗祖である道元に対して、知識だけでなくもう少し深いところで、自分なりの解釈を見いだしたいと思ったのです。

『道元における出家と在家の問題』という題で卒論に取り組みました。その時に、資料として選んだのが『正法眼蔵』でした。道元の初期の思想は、遍(あまね)く人々に仏教を広め、皆共に救われるというものでしたが、後年になると、出家主義的な考えに強く傾いていく。それがなぜかをはっきりさせたいという思いが私の中にありました。僧侶になる未来がありながら、在家として勉強を続けている自分自身の問題と重ねていたのだと思います。

――ご自身の中で“解”は見つかりましたか

私たちに親しい仏教の教えでは、全てのものが救われる、全てのものが悟りの世界に行けると説かれているけれども、さまざまな苦難を経て、道元自身が、今の世ではこれ以上仏の教えを広めることができない、次の時代に託そう、という気持ちが強まったのだろうと思います。それが、一人でも二人でも本物の仏教者、出家者を育てる方向へと道元を突き動かしたのではないか、そんな解釈を私はしました。

では自分はどうか。私の父は若い時に結核を患い、医者から30歳までもたないだろうと言われたそうです。そのことが父の心にずっと刺さっていて、自分が生きているうちに我が子を一人前の僧侶に育てなければという思いが強かったのだと思います。道元の「次の時代に託そう」との思いにも通じるところがあると感じました。なので、大学を出たら父の跡を継ぐと改めて覚悟したのです。ところが、道元と違い、父は年をとるごとに元気になっていった。私が大学を卒業する頃は元気の盛りで、父は布教師として全国あちこちを飛び回っていました。私がもう少し勉強したいと父に言うと、いいよと言ってくれたんです。

東京大学大学院の印度哲学専修課程に入ってからは、華厳思想の研究を始めました。「宗教と社会」研究会に所属して冊子の編集長なんかも務めて、研究会を開いたり、小論文を書いたり、そんな時代を経ながら少しずつ仏教の研究に没入していったのです。

――道元だけを研究されてきたわけではないのですね

そうなんです。大学では自分の専門分野だけでなく宗教学とか倫理学とかそういった近隣分野の先生や学生たちともよく話をしました。学生時代はこの“つまみ食い”が大事で、いろいろな人の意見や考え方に触れて、自分の専門分野との関連性を見いだしたり、比較検討したりすることで、全てが自分の栄養になる。それが本当の専門研究だと私は思います。今の若い方にもそんな学び方をしてほしいですね。

信仰にも言えることですが、自分が大事にしたいものを持つことはとても良いことですが、内向きになってはいけません。自分の意見や考えを他者に発信することで、相手も心の内を開いてくれて、お互いの信仰なり思想なりの素晴らしさに気づけるのです。そういった意味でも、自分とは違う考えの人、他の信仰を持つ人と出会うことを恐れる必要は、少しもないのです。

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