【日蓮宗日澤山仙寿院住職・芝崎惠應さん】宗教者の本来の役割を果たし 震災で困難抱える人々と共に

東日本大震災から10年。鎮魂と復興への思いを胸に復興支援活動を続ける

今年3月、東日本大震災の発生から10年を迎えた。岩手県釜石市にある仙寿院の芝崎惠應住職は、自ら被災しながらも、高台にある自坊を避難所として開放。震災後間もなく、近隣の寺院に呼びかけ「釜石仏教会」を設立し、物心両面で被災者支援にあたってきた。その後も、仮設住宅に暮らす被災者への訪問をはじめ、毎年の慰霊行事などに取り組む。悲しみ、苦しみに向きあう宗教者による復興支援活動の意味について聞いた。

絶望から使命を見失った私 娘がくれたひと言で再起

――震災直後、どのような状況だったのでしょう?

釜石市は、想定をはるかに超える津波が襲来し、行方不明者を含めて千人以上の尊い命が犠牲になりました。地震が起こった時、私は妻と車に乗っていました。突如激しい揺れに見舞われ、瞬く間に国道は逃げ惑う車で大パニックになりました。私は、長女を寺に残してきたことが気がかりで、一目散に自宅へ戻りました。境内の駐車場は近隣の住民でごった返していました。自坊は山の中腹にあり、津波災害緊急避難場所に指定されていたことから、大勢の人が避難してきたのです。

震災当時、仙寿院には一時600名近い避難者が身を寄せた

一方、逃げ遅れた人が助けを求めながら津波にのまれ、付近にあった家屋が次々と流される光景を目にし、言葉を失いました。近くにいた初老の男性は「神も仏もないじゃないか」と叫びました。返す言葉が見つかりませんでした。

――大変な状況の中で、自らを奮い立たせたものは何ですか

震災翌日のことです。その日は早朝から遺体安置所を捜し回っていました。日が沈み、ひと息ついて自室に戻ると、つい「仏の教えなんて、ちっとも役に立たない」と愚痴をこぼしてしまったのです。すると、長女にこう諭されました。「お父さん、何言っているの? 私たちは、仏さまの教えがあるから人さまに尽くすことができるんでしょう。毎日仏さまにご飯やお水をお供えして供養していたから、いざ大勢の方々が避難してきても、普段と変わらずにお世話することができたんじゃない? それは、仏さまの教えを実践していることじゃないの?」。

その言葉に、ハッとさせられました。僧侶は日頃から、「給仕第一」という言葉で、仏さまにお仕えするように人さまにお仕えしなさいと教えられています。長女は、毎日当たり前のようにお給仕をする私たちの姿を見て、仏の教えとは何かを感じ取ってくれていたのです。体験したことのない災害に直面して動転していましたが、長女の言葉で、宗教者の役割を深く考えさせられました。そして、今こそ「利他」の精神で被災者支援に臨ませて頂こうと思ったのです。

――「釜石仏教会」設立の願いは?

「釜石仏教会」は、震災発生から6日後の3月17日に発足しました。震災から3日目に、廃校になった中学校の体育館が遺体安置所になっていることを知り、すぐに向かいました。そこには想像した以上の多くの遺体が安置されていて、悲しみに満ちた物々しい雰囲気の中でご回向(供養)させて頂いたのです。一体一体、遺体袋のチャックを開け、拝顔するのですが、年端もいかない女の子や妊婦さん、学生さんもいて、胸が締めつけられました。それから連日、ご回向させて頂きました。ただ、遺体は大変な数に上り、お一人お一人を大切に弔うには他の宗派の方々と協力していくしかありませんでした。

そこで、行政とも話し合い、犠牲者の弔い(読経ボランティア)は、伝統仏教で担わせて頂こうと、市内の12カ寺と隣接する大槌町の5カ寺に呼びかけて誕生したのが「釜石仏教会」です。被災した寺院も多かったため、役割分担を明確にして、今できることを協力して取り組ませて頂こうと申し合わせたのです。他の宗派の方々とは日頃から保護司会などで交流があり、気心が知れていることが幸いしました。

さらに仏教会では、犠牲者の弔いに加え、被災者救援として食料や物資の調達、炊き出しなども行いました。こんなエピソードがあります。隣接する曹洞宗の寺院には大きな炊事道具があって、若い僧侶がたくさんいるものの、肝心の米がなかった。一方、私の寺には、炊き出し用の道具はありませんでしたが、奉納米が300キロあった。被災者のために協力し合うのは至極当然のことで、若い僧侶が作ってくれたおかゆは絶品で、とても喜ばれました。

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