【世界宗教者平和会議日本委員会理事長、日本聖公会首座主教・植松誠さん】“地球家族”の一員として 宗教者が慈しみの実践を

葛藤の中で自分を見つめ 祈りを通し一歩踏み出す

――ご自身にとって宗教とはどんな存在ですか

私の父は牧師でした。母は医者で、キリスト教のクリニックをつくり、貧しい人からはお金を取りませんでした。両親は自分たちも裕福ではないのに、生活に困っている人たちを家に住まわせ、家族6人で四畳半一部屋の生活をしていました。私は中学、高校時代、そんな信仰の世界に猛反発しました。宗教が説く愛や赦(ゆる)しが、現実の生活ではきれいごとのように感じられたのです。ですから、大学進学で大阪に出た時は、〈これで教会から離れられる。人は信仰なんかなくても生きていけるんだ〉と解放感に浸ったものです。

ところが、たまたま下宿先の近くに教会があり、そこの牧師が叔父だったのです。叔父の世話になったこともあり、やがて教会の手伝いをするようになりました。そこで出会う人たちは純粋に、素朴に神を信じ、日々のささやかなことに感謝し、時には落ち込みながらも、いつも祈りに包まれた生活を送っていました。その姿を見るうちに、〈こんな生き方もあるんだ。信仰って、もっと楽でいいんだ。鎧(よろい)を着て必死に頑張らなくてもいいんだ〉と思えたのです。

また、思い通りにならない人生の中で、自分の力は思ったより大したことはないと考えるようにもなりました。そうしたことが機縁となり、私の信仰観が少しずつ変わっていったように思います。

信仰とは理詰めで納得がいく世界ではありません。日々の生活でいかに喜びを見いだし、祈りの生活を送れるか。そうした単純に思えるようなことが本当は大切なのです。私の信仰は今も“進行形”です。自分の信仰はこれでいいのかと、常に問いながら生きていく――それが私の死ぬまでの歩みだと思っています。

日々の出来事の中では、〈一日無事に過ごさせて頂いた〉と感謝できることもあれば、神のみ心に沿えず、〈神さま、赦してください〉と悔い改めることもあるでしょう。それでいいのです。信仰の旅路は終わりのない、永遠に続く道です。時には後退しながら、〈また明日は神さまのお導きがある。前を向いて歩き始めよう〉と思えるところに安心感と希望があるのです。こんな自分でも神に見守られている、神は私を見捨てないという安堵(あんど)感です。

――神さまに見守られていると感じるのはどんな時ですか

例えば、ほんの少しの思いやりによって、相手がほほ笑む。そんな何げないやりとりの中に、確かに神がいてくださる、限りない憐(あわ)れみをもって守っていてくださることを感じます。「神は愛である」と聖書にありますが、人と人とがお互いに慈しみ合うところに神の世界もあるのだと思います。

もちろん、人間であれば、信仰者として神の愛を実践しなければならないと知りつつ、人を愛せないこともあるでしょう。愛そうと思っても愛せない、赦そうと思っても赦せない。それは、信仰を持つが故の苦しみです。

しかし、その葛藤が信仰者として大事ではないかと思います。葛藤の中でこそ自分を見つめられ、謙虚にもなれるのです。〈人を赦せない私をどうぞお導きください。私を強くしてください〉という祈りの中で、いつかきっと一歩を踏み出せる機会が与えられます。

神は必ず私たちに道を用意してくださっています。私たちは安心して神に甘えてよいのです。みんな神の手の中にいるのですから。

プロフィル

うえまつ・まこと 1952年、山梨県生まれ。大阪芸術大学卒業、米・フィリップス大学大学院修了。米聖公会サウスウェスト神学院で博士号を取得する。86年に日本聖公会大阪教区大阪聖三一教会牧師、94年に同管区事務所(教団本部)総主事。97年から北海道教区主教を務め、2006年、首座主教に就任する。同年からWCRP/RfP日本委員会理事を務め、18年、同理事長就任。