【第37代木村庄之助・畠山三郎さん】人がやらないことをやろう――目の前の相撲と向き合って

行司として半世紀――相撲の魅力

(写真=畠山三郎提供)

――現役中の印象に残っている出来事は?

行司として務めた50年の間には、紆余(うよ)曲折がありました。痛かった思い出といえば、取組中の力士にぶつかってしまい、土俵の外へ突き飛ばされたこと。行司の私がうまく回らなければいけないのにぶつかった。つまり突き飛ばされた自分が悪い。その時は土俵下に頭から落ちて脳振とうを起こし、意識を失っていました。15分ほどだったそうです。目が覚めたら、両国国技館内にある相撲診療所のベッドの上でした。結局、私が担架で運ばれたので、先輩の行司が勝ち名乗りをしてくれました。

行司としての命が絶たれるのではないかと覚悟をした時期もありました。第10代木村庄三郎になり6年目の平成20年夏、相撲協会の健康診断を受け、レントゲン(X線)再検査の結果、食道がんと診断されたのです。「ステージ2.5です」と。孫が生まれる予定日と手術日が重なったこともあり、<ダメだ。孫は俺の生まれ変わりになる>とさえ思いました。その1週間後に誕生した孫と対面した時は、感動もひとしおでした。

7時間半に及ぶ手術と約2カ月の入院で25キロほど痩せてしまいました。九州場所を全休した後、無事に土俵に戻り、さすがに最初は声が全く出ませんでした。行司は声が“命”で、<土俵に帰れるか>と不安はよぎりましたが、辞めようとは思いませんでした。

その後、24年11月に第39代式守伊之助、翌25年11月に第37代木村庄之助を襲名しました。

――大相撲立行司まで務める中で見つめた相撲の心と魅力とは?

土俵に立つ時は、何も考えず頭を空っぽに、心を無にすることを心がけていました。それでも緊張をしたのは、天皇、皇后両陛下が大相撲をご観戦に来られた時でした。その日最後となる取組で普段、「この相撲の一番にて本日の打ち止め」と呼び上げる口上が、「この相撲の一番にて本日の結び」という口上に変わります。普段やらないことをするので、気になって仕方なかったですね。

ただ声を掛けるだけでなく、取組中、どちらが勝つのか分からないので力士の動きに集中し、目の前の生の相撲に向き合うことを大切にしよう、とも心に留めていました。当たり合って寄り合い、寄り返し。いい相撲だと、思わず行司の私も力が入ってしまうこともしばしば。相撲の勝負は短くて、一瞬。差し違えは許されない。その緊張感がやりがいなのかもしれません。

立行司の現役中、夢だった日本人横綱と土俵に立つことはかなわぬまま、27年の千秋楽、65歳で定年を迎えました。今も私が相撲ファンであることは変わりなく、場所が始まると自然に足が両国国技館に向かってしまいます。

プロフィル

はたけやま・さぶろう 昭和25年、青森県生まれ。40年に高島部屋に入門し、同年7月場所で初土俵を踏む。初名木村三治郎より、第5代木村玉冶郎、平成15年に第10代木村庄三郎を襲名。さらに24年11月場所に立行司第39代式守伊之助、25年11月場所に第37代木村庄之助を襲名した。27年3月場所で定年を迎え引退した。