【第37代木村庄之助・畠山三郎さん】人がやらないことをやろう――目の前の相撲と向き合って

力士は主役、行司は脇役。ただ、行司がいなくては勝負はつかない。なくてはならない存在である。約半世紀、軍配を握り、行司の最高位の大相撲立行司第37代木村庄之助まで務めた畠山三郎さん。行司として見つめた相撲の奥深さや面白さ、見どころについて聞いた。

15歳で上京し行司の道へ じっと我慢の厳しい世界

――相撲の世界に入ったのは何歳の時ですか

小学校低学年の頃から、父親の影響もあり、相撲が大好きでした。当時は一般家庭にテレビが普及していない時代です。相撲中継がある日は学校から帰ると近所の薬局へ行き、窓越しに白黒テレビで相撲を観戦していました。

まさか相撲の世界に入るとは思ってもいませんでしたが、中学卒業を控えた時に転機を迎えました。高校進学と就職で、進路に随分と悩みました。相撲が好きという気持ちは揺るぎなく、地元の青森県上北郡六戸町に来ていた相撲部屋の関係者から行司を探していると聞き、決意したのです。<人生一度きり。人がやらないことをやろう>。両親に話すと、びっくりしていました。しかし、両親は快く送り出してくれ、昭和40年3月30日、15歳で上京し、高島部屋(現・友綱部屋)に入門しました。53年前のことになります。

――どんな修業時代を過ごされたのですか

上京した翌日から朝2時に起床し、風呂場や便所などの掃除から修業がスタートしました。寝起きしている行司部屋はもちろんのこと、とにかく掃除、掃除でした。徹底的に仕込んでもらい、そのおかげで掃除好きになりました。

力士の順位表である「番付表」を書くのも行司の仕事で、字もうまくならなければいけません。番付表の文字を「相撲字」といい、先輩行司から相撲字の手ほどきを受け、練習を重ねます。番付表の板や紙は、正座をして手を伸ばしても筆が届かないくらい大きい。だから、上の方の字を書く時は、腹ばいになって書きました。

その他、大相撲初場所を前に行う「土俵祭」の主宰や祭主などを務めるのも行司です。神主さんのように祭で述べる口上があるのですが、それを覚えるのが大変でした。昔から伝わる口上は、全て漢字で、当て字もあり、言い回しも最初はまるで分かりません。カナを振り、声の高さ・低さ加減なども先輩から教えてもらい、毎日とにかく必死でした。

土俵に上がった瞬間から心を無にする。約半世紀、相撲に全身全霊を捧げた(写真=畠山三郎提供)

初土俵を踏んだのは、入門から4カ月後、40年の7月場所(名古屋)で、先輩から「やってみよう、こなすしかない」と後押ししてもらい、無事に務めることができました。行司も力士と一緒で、格付があり、取組をさばく番数も異なります。関取格・十両格以上の行司全員が取組を二番ずつ、木村庄之助だけは結びの一番をさばきます。私が若かった頃は20~25番くらい、地方巡業では50番くらいさばくこともありました。

辛抱強くなったのは、修業時代に学んだことが影響しています。相撲の世界は厳しい縦社会です。格付によって装束も違い、十両格以上になるまでは裸足で土俵に立つ。地方巡業に行くと、当時は小・中学校の校庭や野球場に土俵を作っていたので、寒い時は大変でした。先輩に対する態度にも厳しい決まりがあり、絶対に口答えしないとか、盾突かないというのは徹底されていたので、腹が立った時でも、じっと我慢することが身につきました。

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