【舞台女優・神田さち子さん】声なき声を伝える――中国残留婦人の生涯を演じ続けて
「弱かもんが犠牲になるとです」
――舞台に込めた思いとは?
ひとり芝居「帰ってきたおばあさん」は、夫と共に満州に渡った中国残留婦人の主人公・鈴木春代の物語です。先ほども少し触れましたが、1945年8月9日、中国北部方面からソ連軍が侵攻し、満州に駐留していた日本軍は戦況の悪化を察知して早々に撤退し、開拓移民が取り残されました。ソ連国境に近い三江省の村に暮らしていた春代は、逃げる途中に夫や子供と生き別れてしまい、最後は中国の村人に助けられます。生きるために中国人青年と結婚するのですが、今度は文化大革命に伴う外国人迫害の標的になります。こうした過酷な運命の中を生き抜き、60年ぶりに故郷・鹿児島に戻った春代が、その半生を語る舞台です。
中国残留婦人の方々との交流会の最後、ある言葉を耳にしました。小柄で腰の曲がったおばあさんに、私は帰り際、「私たちに何かできることはありますか?」と声を掛けました。すると彼女は、「日本という国に、もう何も言うことはありません。ただ、私たちのような者がまだ中国にたくさんいることだけは忘れないでください」と話されたのです。
私は、彼女たちが過酷な人生を課せられ、生き抜いてきたことを語り継ぐため、舞台に立ち続けてきました。でも、演じる中で、忘れないだけでは駄目だと思うようになりました。もう二度と、つらい思いをする人をつくらないよう、見てくださる方々と、<戦争は絶対に起こしてはいけない>という思いを共有していきたいのです。舞台の中で、「戦争すれば、弱かもんが犠牲になるとです」というセリフがあります。その言葉には、実際に出会った残留婦人の全員の気持ちが詰まっています。
――演技のために、中国でも現地の方に話を聞かれたそうですね
中国残留婦人を演じるには、事実を正確に知らなければならないと思い、中国・ハルビンへ取材に行きました。この時、年老いた女性から聞いた話が忘れられません。この女性は、親と離ればなれになって残された中国残留孤児を育てた方でした。
ソ連軍による侵攻に加え、武装した中国人が蜂起して、開拓移民は逃げるしかなかったのですが、生き延びるためにやむを得ず、わが子を手に掛けた人もいました。それがためらわれ、道中の畑にわが子を置き去る例も少なくなかったといいます。その養母さんは、コーリャン畑で泣き声を上げる日本人の子供を引き取って、育てられた方でした。敵国の子をわが子として迎え入れ、育てる心の内を尋ねると、彼女はこう言いきりました。
「命に敵も味方もあるもんですか! そこに命があったら育てます」
戦争が起きれば、敵、味方に関係なく双方に犠牲が生まれ、虐げられる人々が出ます。ただ、命を奪うのが人間であるのなら、命を生かすのもまた人間であり、養母さんは、何にも代え難い命を尊び、弱きものに手を差し伸べたのです。良心を失うことなく、その人間性によって戦争に抵抗したように、私には思えてなりませんでした。