大聖堂建立60周年特集 会員の感謝の声と法話でかみしめる

庭野開祖の法話から 大聖堂に込めた願い

1964年5月15日「大聖堂落成式」から

「佼成」1964年7月号から抜粋

私の大聖堂建立の基本的構想は、本会の教理をこの建築物に表徴したいということでありました。

この波羅蜜橋を渡って、大聖堂に詣でる人たちの心構えは、仏教の本義に基(もとず)いて涅槃の平和境建設のためのご法を把握するために渡る波羅蜜橋であることを、心に銘記して頂きたいのであります。

波羅蜜橋を登りつめたところは大聖堂の三階の位置で、そこが正面玄関になっております。ここの石段をのぼると、上に三枚の漆画(うるしえ)がかけられております。(中略)初(はじめ)に卓越した智慧(ちえ)によって仏法の真髄を理解したら、次に仏教的信条に基く精神革命を断行して頂き、最後に人格完成のための不惜身命(ふしゃくしんみょう)の修行をして頂くのが、御本尊の安置してある中央ホールに詣でるための道筋であるということを、三枚の画像によって皆様に教えていると同時に、それがまた私の仏道修行の基礎的要求なのでもあります。

会員が大聖堂にはいって修行しようとする時は、仏と法に帰依することによって、大衆が統理されて他の如何(いか)なる団体にも見られぬ平和境の和合(僧)団(サンギヤ)が現出されねばならぬということであります。これこそ、三帰依の真精神でありますが、これを如実に大聖堂内において顕現して頂きたいのであります。そしてこれを家庭から世界に拡大して頂きたいのであります。これによってこそ、初(はじめ)て本会が三帰依を唱和する目的も、更にまた私が円型の大聖堂の建立に際して、波羅蜜橋をかけ、三菩薩像を掲げ、さらにまた大尖塔や大菩提樹、将(は)たまた宝塔などを象徴化した真意を理解して頂けると思うのであります。

「躍進」1964年4月号から抜粋

大聖堂の完成にともなって、(中略)ある危惧感が流れているように感じとられます。(中略)大伽藍(だいがらん)を建ててしまったことによって、すべての信者がホッと安心してしまったり、その建物を維持することだけに心を奪われてしまうために、前向きの活動を忘れ、積極性を失い、次第々々に老化するという経過を、大方の教団がたどったのです。

しかし、その点について、私はすこしも心配してはおりません。なぜならば、われわれの宗教は、宗教のための宗教ではなく、あくまでも〈人間のための宗教〉であるからです。〈人間社会のための宗教〉であるからです。われわれの周囲に満ちている苦しみ悩む人間群を見るとき、どうして安心などしておられましょうか。どうして伽藍の中に閉じこもってなどおられましょうか。

皆さん、大聖堂完成というこの一大エポックを跳躍台とし、生々発剌(せいせいはつらつ)の意気をもって、新しい活動にはいろうではありませんか。そして、かぎりない前進をつづけていこうではありませんか。

*表記は原文のままです

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