食から見た現代(21) 小さないのちに寄り添う――母乳バンクの取り組み 文・石井光太(作家)

写真はすべて「日本財団母乳バンク」提供
人間に合ったミルクの味
人間の母乳と、牛のミルクとでは、甘さがまったく違うという。
牛乳には100グラムに対して4・8グラムの乳糖が含まれるが、人間の母乳はそれよりはるかに多い7グラムにもなる。市販のドリンクに例えれば、前者の糖分はスポーツドリンクと同じくらいで、後者はミルクティーやカフェオレに相当する。そう考えれば、舌で感じる甘味が格段に異なるのがわかるだろう。
進化の中で人間の母乳がこうした味になったのは、様々な意味で赤ちゃんの成長に必要不可欠だからだ。牛には牛に合ったミルクが、人間には人間に合ったミルクが作られているのである。
母乳は天然のワクチン
東京、日本橋のオフィス街――。ここに、全国から母乳が送られてくる施設がある。「日本財団母乳バンク」だ。
日本財団母乳バンクには、全国の家庭や病院で搾乳された母乳が集められている。その量は年間で4501・958リットルに達する(2024年度)。
これらの母乳は、当施設の職員によって国際的な運用基準に基づいて細菌検査を受け、低温殺菌され、冷凍保管される。それが、「ドナー・ミルク」と呼ばれ、各地の病院へと配送される。2024年度でいえば、その量は2464・24リットルで、赤ちゃん1214人分となっている。
欧米では母乳バンクは広く普及しているが、日本ではまだ発展途上だ。現在日本にはドナー・ミルクを必要としている赤ちゃんが約5000人いるとされているので、届いているのは4人に1人ということになる。ただ7年前の2018年にはわずか66人の赤ちゃんにしか提供されていなかったことを踏まえれば、この数年で急速に伸びているのがわかるだろう。
日本の“母乳バンクの生みの親”が、ここの理事長を務める水野克己氏(63歳、昭和医科大学医学部教授)だ。水野氏は話す。
「日本でドナー・ミルクを必要としているのは、主に低体重で生まれてきた赤ちゃんになります。特にNICU(新生児集中治療室)で治療を受けている赤ちゃんの場合は、身体だけでなく、内臓機能も十分に育っていません。そのために、免疫力などが弱く、一人前の体に育つ前に、感染症などで命を落としてしまうことがあるのです。これまでこうした赤ちゃんにも動物のミルクを原料とした粉ミルクによって栄養を与えていたのですが、ドナー・ミルクの方が生きていく上ではより適切なのです」
ここでいう赤ちゃんとは、主に1500グラム以下で生まれる極低出生体重児のことだ。
近年の日本では、出産年齢の高齢化に伴い低出生体重児が生まれる割合は増加の一途をたどっており、30年間で約2倍になっている。むろん、高齢出産とは別に、染色体異常、子宮内発育不全、早産といった要因によって、未熟な体で誕生することもある。前出の5000人とは、極低出生体重児と呼ばれる赤ちゃんが年間に誕生する数6500人のうち、母親が母乳を与えることが難しいと考えられる人数である。
極低出生体重児の中でも、1000グラム未満で生まれた赤ちゃんは「超低出生体重児」と呼ばれて死亡リスクが高く、NICUに入院している最中の死亡率は、9・2%に上る。原因としては、感染症(21・3%)と壊死(えし)性腸炎・消化管穿孔(せんこう)(16・2%)で半数を占める。どちらも十分な免疫力を持たない赤ちゃんの体にウイルスや細菌が侵入して引き起こされる病気だ。
ドナー・ミルクは、こうした赤ちゃんにとってどんな役割があるのか。水野氏はつづける。
「市販の粉ミルクは一般的に牛、稀(まれ)にヤギのミルクを粉末にして製品化したものです。これを人間の母乳と比較すると、成分に様々な違いがあります。わかりやすいところだと、母乳にはタンパク質やカゼインが少なくホエイが多いですが、粉ミルクは逆にタンパク質やカゼインが多く、ホエイが少ない。簡単にいえば、人間にとって粉ミルクは母乳と比べると消化が悪いのです。
また、粉ミルクには、生理活性物質が母乳に比べると限られているとされています。生理活性物質とは、栄養素とは別に、免疫や成長、代謝、それに腸内環境などに良い影響を与える物質です。また、殺菌過程で善玉菌も失われています。
健康に育った赤ちゃんであれば、粉ミルクでもちゃんと消化できるし、成長に必要な栄養を摂ることができます。しかし、そうでない赤ちゃんは内臓機能が弱いのでうまく吸収できないし、得られる生理活性物質も限定的になるので、結果として免疫力が落ちたり、内臓機能に問題が起きやすくなったりするリスクが高まります。
私たちが低体重の赤ちゃんにこそドナー・ミルクが必要だと考えるのはそのためです。ドナー・ミルクであれば、未発達な腸でも消化に困らないし、免疫力のアップや病気の予防の効果もある。それが死亡率を下げることにつながるのです」
低出生体重の赤ちゃんにとって重要なのは、未発達な身体のまま生まれてすぐに、消化がよく、十分な栄養や生理活性物質を含む母乳を与えることだ。そうすれば、免疫力が向上して疾病予防になるし、点滴で栄養を注入する期間を短縮させることにつながる。
たとえば、壊死性腸炎は、未発達な腸に細菌が感染することなどによって腸が壊死する病気で、罹患(りかん)した場合、半数が死亡するといわれている。だが、母乳を与えた場合の予防効果は80%にも上る。それくらい粉ミルクと、母乳とでは低体重の赤ちゃんに及ぼす効果は違うのだ。
問題は、すべての母親が自分の母乳をわが子に与えられるわけではないという点だ。産後の母親が体調不良から母乳が出なかったり、がんの治療中で抗がん剤治療を受けていたり、感染症にかかっていて隔離中だったりする場合は、母乳を与えることができない。この時に母親の母乳の代わりとなるのが、別の女性から提供されるドナー・ミルクなのである。
水野氏は話す。
「現在、全国の極低出生体重児にドナー・ミルクが必要な分だけ行き渡っているかといわれれば、残念ながらそうではありません。医療業界の中でも、まだまだドナー・ミルクに対する認識が乏しかったり、金銭的な理由で導入が難しかったりする現状があるのです。もちろん、提供する私たち母乳バンク側にも至らない部分があります。そういうところをクリアすることで、極低出生体重児が健康に生きられる環境を作るのが、今の私たちの役割だと考えています」
なぜ、これだけ明確な効果のあるドナー・ミルクが、まだそれを必要とするすべての極低出生体重児に届いていないのだろうか。背景には、時代と共に変わった母乳のあり方が関係している。





