立正佼成会 庭野日鑛会長 1月の法話から

1月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

新しい年を迎えて

元旦を迎えて、真(ま)っ新(さら)な一年がこれから始まります。まったく新しい一日一日を迎えるわけです。今を大事にすることが一日を大事にすることにつながりますし、令和7年を大切にすることにもつながります。

本年も皆さまと共に、真っ新な気持ちで、一日一日を大切にして、世界の平和を念じ、精進させて頂きたいと思います。
(1月1日)

皆で一つ年を重ねる

「数(かぞ)え年(どし)」ということを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。ある方がこうおっしゃっていました。

「ある時、年齢の話が出て、中に、“外国では満で何歳何カ月と勘定をするが、日本では数え年で勘定する。あれはどうも非科学的である”と言うものがおりました。

それで私は、“それは逆だろう。それならば訊(き)くが、あなた方はおっ母さんのお腹(なか)の中におった時間を勘定しないのか。われわれはたとえ十二月三十一日に生まれても、明ければ二歳になるのは、そのお腹の中におった十カ月を一歳と勘定するからだ。だからこちらの方がより科学的であり、且(か)つ人道的ではないのか”と言いましたら、皆顔を見合わせてしばらく黙っておりましたが、やがて“ザッツライト”とか何とか言って納得しました」

それから物理学者の佐治晴夫先生が、こうおっしゃっています。

「第二次世界大戦が終わるころまでは、日本では、お正月がくるたびに年を重ねる『数え年』が一般的でした」

「ところが、今では、すべてが満年齢。しかし、よく考えてみると、満年齢というのは、今まで実質的に生きてきた経過年齢のことであり、生物学的な意味はあっても、未来への夢がまったく感じられません。一方、『数え年』は、お正月を境にして、日本全国の人が一斉に年を重ねるわけですから、すべての人たちが、一緒になって、豊かな未来に向かって新たな気分で船出しようという気持ちが表れています。

未来に希望がもてなくなっている人がたくさんいるという現代、一度、『数え年』にしてみたらいかがでしょう」

私も、佐治先生に賛成です。お正月が来るたびに、一斉に一つずつ年を重ねていくという日本の「数え年」は、みんなが心を一つにしていける感じがして、大切なことだと思います。

私は今年、「数え年」で米寿(べいじゅ)を迎えました。有り難い年を迎えたなと思っています。
(1月7日)

地涌の菩薩とは

法華経の従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)には、大地から涌(わ)き出てくる地涌(じゆ)の菩薩たちが、この世の中をしっかりと平和にしていくのだと説かれています。世界を良くするも悪くするも、地から涌いてくる私たち一般の人間にかかわっているということであります。

世界を平和にするのも戦争にするのも、私たちの肩にかかっている。世界の問題は、私たちが本化(ほんげ)の菩薩として解決すべき問題で、偉い人が現れて何とかしてくれるということではない。その任に当たるのは、世間に名も知られず、人前に出しゃばったりせず、お金も名誉も権力も欲しがらないで、民衆と共にあって苦しんでいる人々である。大地から涌き出てくる人たちはそういう人たちだと説かれています。

有名な詩人、宮沢賢治も法華経の信者でありました。賢治が鉛筆で手帳に書きつけたのが、あの有名な「雨ニモマケズ」です。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾(よく)ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰ(い)ル
一日ニ玄米四合ト
味噌(みそ)ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
(中略)
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

ここに込められた精神は、本当に地涌の菩薩のような感じを受けます。菩薩たちが、大地から涌き出してくるように奮起して、ただ一筋(ひとすじ)の真心をもって世界の問題を解決するのでなかったならば、世界はついに救われないのだ、無名の人々の手にこそ世界の運命が握られているのだ、ということを示しています。私たちは、これがいわゆる本化、地涌の菩薩であると信じており、宮沢賢治もそういう法華経の信仰に生きていたわけであります。

世の中のいろいろなことに慈悲の心を持って向かい、日々精進していくことが、法華経に説かれている地涌の菩薩の精神であるわけです。その精神をもって精進していきたいと思います。
(1月7日)

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