年頭法話 立正佼成会会長 庭野日鑛

敬する、敬うことの肝心なところは 自己を敬する、自分を敬うこと

さらに、本年次の方針にある「敬の心」とは、すなわち偉大なる目標を持つ、進歩向上の願いを持つということです。未完成な自分に飽(あ)き足らず、少しでも高い境地に近づこうとする心です。

そのような敬の心が発達してくると、おのずと至らない自分を省(かえり)みて、恥じる心が生じます。そして、自らを戒め、律(りっ)して、新たな努力・精進が始まるのです。

この敬の心には、より大事にすべきことがあります。敬する、敬うことの肝心(かんじん)なところは、自己が自己を敬する、自分が自分を敬うことであります。

自らの尊さを自覚できない人は、真の意味で他を敬することができません。自己の尊厳(そんげん)を知る人であって初めて、他の尊厳を知るということであります。

そもそも私たちが、この世にいのちを頂いたことは、本当に奇跡的なことです。教育者の東井義雄(とういよしお)先生がこう表現されています。

「自分の意志でこの世に生まれてきた人は一人もいない。人は皆、何か知らない力によってこの世に生み出されてくる。賜(たまわ)った命であり、人生である」

強く心に響く言葉であります。

同時に、私たちのいのちは、太陽をはじめ、月や星、山や川、空気や水、周囲の人々、動植物や虫、微生物や細菌までを含め、森羅万象(しんらばんしょう)の恩恵を全身に受けて生かされています。

自らのいのちを見つめれば見つめるほど、その尊さ、不思議、有り難さに身の引き締まる思いがします。

そして何より、人間は誰もが生まれながらにして仏の悟り、真実の道理を認識する能力を持ち、仏となる種子(しゅし)、つまり仏性(ぶっしょう)を具(そな)えていると教えられています。

困っている人を見ると、何とかしてあげたいという気持ちがわき起こるのも、心の奥底に仏と同じ願いが具わっている証(あかし)です。

日ごろ私たちは、仏さまを合掌・礼拝(らいはい)します。その私たちにも仏と同じ心が具わっています。ですから、仏さまを拝むことは、自分の中にある仏性を拝んでいることと一つのことです。

とかく私たちは、「自分は至(いた)らない人間だ」などと卑下(ひげ)しがちです。

しかし、私たちは皆、奇跡の塊(かたまり)ともいえる尊いいのちを賜っていること。心に仏と同じ仏性を宿していること。そして一人ひとりが、真理・仏法を認識する能力も、自分で問題を解決する力も具えていること。このことを肝(きも)に銘(めい)じ、自信を持って精進することが、仏法に基づく生き方の根本であります。

曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖である道元(どうげん)禅師(ぜんじ)の言葉に、「此(この)一日の身命(しんめい)は尊ぶべき身命なり、貴(とうと)ぶべき形骸(けいがい)なり。此行(ぎょう)持(じ)あらん身心(しんじん)自らも愛すべし。自らも敬うべし」とあります。

この一日の生命は尊ぶべき生命である。尊ぶべき身体である。仏道を精進している身心を自らも愛しなさい、自らも敬いなさい、という意味合いです。

仏の道をひたむきに学び、実践しているわが身、わが心を尊んでいく――このことを自覚したいものであります。

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