立正佼成会 庭野日鑛会長 9月の法話から

9月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

信仰の功徳

慈雲尊者(じうんそんじゃ=江戸時代後期の真言宗の僧侶)は、たった一文字、妙法蓮華経の「妙」という字を書かれて、そこに、こういう言葉があります。

「いたるところたのしみをうしなはず」

私たちは、この「妙」を、「妙の世界」「有り難い世界」と受けとめていますけれども、「いたるところたのしみをうしなはず」、これが「妙」だと、慈雲尊者は述べられているわけであります。

次に、「信」。

「いたるところとどこふらず」

お互いに信仰を持って、人と人との間に「信」があることを、いたるところ滞(とどこお)らずと表現しておられます。

そして「富」。

「千歳(せんざい)ながく少欲の家に存す」

千歳(長い年月の意)、長く、欲の少ない家に「富」があるのだということが述べられております。欲の多い人は、「もっともっと欲しい」という気持ちで、相当の「富」があっても、それをそう思わない。ところが、「少欲の家に存す」ということですから、ちょっとでもあればそれでもう「有り難い、有り難い」と言っているようなところに本当の「富」があるのだということです。

ただ一字から、「妙――いたるところたのしみをうしなはず」と。それができると本当に有り難い人生を生きることができるわけであります。「信――いたるところとどこふらず」。本当に人と人との間は滞らない。自らそうした「信」を持つことは、有り難いことに違いありません。また「富」ということも、欲張らずにちょっとのことでも「有り難い、有り難い」と受け取る。そういうところにこそ本当の「富」があるのだと、私は受けとめさせて頂いています。

私たちの体は、体を構成している細胞が毎日毎日、新しくなって、新陳代謝(しんちんたいしゃ)しています。ところが、ややもすると、心の面でなかなか新しくなれない、滞ってしまう。「あいつがこう言った」とか、変なことをつい心に思ってしまいます。

私たちの体は毎日、新陳代謝をしているわけでありますから、心も、慈雲尊者の言葉にありますように、「妙」とか「信」とか、「富」とか、そういう世界に、毎日いたいものです。そうしたことのためにも、私たちは信仰をしているのだと思います。
(9月1日)

興味を持って学ぼう

エジソン(トーマス・エジソン。アメリカの発明家、起業家)という方を皆さんもご存知(ぞんじ)だと思います。発明王ですね。エジソンは1847年から1931年までの寿命で、亡くなったときは84歳でした。当時は、おそらく相当長寿だったと思うのですけども、その頃のエジソンの言葉に、こういう言葉があるのだそうです。

「人は七十になって、日を過(すご)すのに退屈や困惑を覚えるようになれば、それはその人が若い日に興味を覚ゆべき無数の事物を閑却(かんきゃく)しておった証拠である」

閑却とは、打ち捨てておくこと、なおざりにすることです。若いときから何か興味を持って、これを調べてみたいとか、研究してみたいとか、そういうことはなかった、ということです。

「七十になって隠居する人はまあ三年もたたぬうちに死ぬ覚悟でおらねばなるまい」

こういうことも言っているんですね。もう一つあるのですが、「天才とは天が与える一%の霊感と九九%の流汗(りゅうかん=汗を流すこと)とからなるものである」と。

エジソンはいろいろな発明をされて、いつも活発に研究されていたということです。エジソンの言葉を通して、私たちはいくら年を取っても、毎日、何か興味のあるものを探して学んでいくことが大事であると教えられているように思います。

私も自分なりに面白い、研究してみたい、学んでみたいと思うことは結構ありますので、毎日、つまらない日はないんです。毎日楽しいというか、いろいろ学びたいと思っています。でも時によると、もう何もしたくない、話もしたくないという日もあります。そうしたときは、さまざまな本を読んで、また元気を頂いているわけであります。
(9月1日)

自分を見失わないように

以前、日本では小学校・中学校を尋常(じんじょう)小学校・尋常中学校と言いました。私は、この「尋常」がとても大事な言葉だと思いまして、そのことについてちょっとお話をしたいと思います。

「尋(じん)」は尋(たず)ねるという字、「常(じょう)」は常(つね)という字ですね。ですから尋常とは、「常を尋ねる」という意味があります。常とは、いかなる人間、いかなる場合も、こうあらねばならないという原理、原則、道を意味するということです。どんなことがあっても変わらずに身につけておくべきもの、というのが「常」ですね。

火事があろうが、地震があろうが、病気をしようが、けがをしようが、何事があろうともうろたえない。取り乱さない。それが「尋常」ということです。どんな場合も、人間として変わらない原理、原則を失わないように、普段から修行しておくというのが尋常の意味であると教えられています。
(9月10日)

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